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こうやって強いしなやかチームが作れる

強くてしなやかなチーム作りに絶対役立つ考え方です。

 

いまやプロを凌駕するほど強くなったコンピューター将棋。


その「評価の考え方」は、将棋以外のことにこそ活かせると思っています。


とても実用的で、戦略や方針づくり、チームや組織作りに、なぜ将棋を使わないんだろう?

 

ふしぎふしぎにそう思います。


将棋では、ひとであれ、コンピューターであれ、いろんな局面を評価し、判断して、次の一手を決めていきます。


いくら1秒間何億手も読むようなスーパー能力を持っていたとしても、その局面の判断が間違って、次の一手がまちがっていると、まったく意味がなくなります。


強くなったのはいろんな要素や努力のたまものですが、ひとつには「駒同士の関係」で判断することができるようになった、ということが大きいそうです。


いろんな駒があります。


強い駒もあれば、弱い駒もあります。
一点突破の駒もあれば、長距離砲もあります。
つなぎの駒もあれば、守りにやたらとつよい駒、おもわぬ弱点をもつ駒もあります。


ひとつひとつの駒は、個性はばらばら、良いところも、弱点もあります。


その駒同士の、連結のしかた、その働きの活かし方や弱点のカバーのしかた、「3駒関係」というそうですが、それを数値化できるようになってから、まるでロケットが空に飛び立つくらいの角度で強くなっていきました。


この駒とこの駒は、こんな関係で配置すれば、最高にはたらく。
こんな配置の場合は、駒たちのはたらきがよくないから、まずは陣地を整備しよう。
よし、これならば多少無理しても、みんなでカバーしあっている、勝負どころだ!


駒たちのはたらきをみながら、守るとき、攻めるとき、一気に行くとき、ゆっくり行くときなどを判断しています。


ひとりひとりの個性や、好きなことや、良いところも、ちょっと弱いところも、みんなあるからこそ、それが組み合わさったとき、千変万化、柔軟で強く、そしてなによりもおもしろいことが生まれるんですね。


みんな飛車と角のような大型選手だと、じっさいの将棋でも弱いんです。


「歩がない将棋は負け将棋」と言いますが、強い人の第一条件は、歩一枚をいかに大切にして、いかに生かし切るかが分かれ目です。


そして、いかに駒同士の関係をよくするか、連結をよくするかが分かれ目です。


ちなみに言えば、駒同士の連結をよくする駒として「銀」という駒があります。


あの羽生善治さんが自分で使っている駒は、その「銀」だけが異様にすり減っているそうです。
「駒たちをどう生かすか」。
もしかして羽生さんのつよさの秘密かもしれませんね。

 

「ひとりひとりを活かしきる」


よく言われる言葉でも、やっぱりそれが真実のように思われるのです。

 

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ふるさとで布教できなかったワケ

イエス・キリストは、こう嘆いたそうです。

 


「ふるさとでは布教できない・・・」

 

 

わたしはキリスト教徒ではないとはいえ、イエス・キリストのことは一時期よく本やその他で学びました。

 

どうも気になるひと、であり、学んでも学んでも学びつくせません。その考えが弟子に伝わり、弟子がローマに伝え、当時世界帝国だったローマ皇帝がキリスト教になり、そして西欧を中心に世界中に広がってきました。


江戸幕府が終わって本格的に大量の西欧の知識が入ってきたとき、その知識や技術の背景には、まさに背骨のようにキリスト教のぶ厚い柱があったことに当時のひとは驚いています。

それらの元になっているイエス・キリスト。

 

 

ところが、、、おもしろいものですね。

どうもふるさとに帰ると「神の子イエス様」ではなかったようです。

「イエス兄ちゃん」とか「イエちゃん」とか、そんな雰囲気だったようです。

 

 

それを受け入れて楽しんでいる様子だった(らしい)イエスもまあすごいのですが、あまりにも距離が近すぎて、布教するというわけにはいかなかったようですね。

 

 

もしかして2,000年たった今、一番驚いているのはイエスのふるさとの人々なののかもしれません。

「あら、まあ、あのイエちゃんがねえ。。。」

 

 

わたしはこの話は好きです。
いま目の前にいるような気がしてかえって活き活きとして、みなに愛されたイエスを感じることができます。

 

 

ただ、このように言うこともできます。
なぜふるさとのひとたちは、イエスのすごさに気付かなかったのだろう。

 

 

これは昔の話ではなく、今の話。

 

わたしたちの日常は、慣れの中ですごされていますよね。

 

「あいつはこういう人だ」
「あいつは、昔からこうだった」
「あいつのことはよく分かっている。言わずとも全部分かっている。」

 

振り返ってみれば、近しいひとほどそう思うことは多いことに気付きます。
それは親しみの表現でもあり、安心感の表現でもあります。


しかしそれが、あまりにも慣れすぎると・・・


「あいつは、どうせこんなやつだ」
「やっぱり、あいつはそうだと思っていた」
「あいつは所詮、ここまでだよ。まあ見とけ」

 

そのひとの存在を全部コントロールしているような、そのひとは全部自分の手の内にあるようなもの言いになり、気持ちになってしまいます。

 

まるで、そのように言う自分自身のことを言っているように周りには聞こえています。

 

単純な事実ですが、ひとは自分とは違います。
単純な事実ですが、未来はだれも分かりません。

 

であるならば、ひとがひとと接するとき、そこに「敬意」が必要です。

 

自分とは違うこと、未来もわからないことに「敬意」を持つとき、はじめてその目の前のひとのことをまっさらな目で、ありのまま見ることができる。


わたしはそう思っています。

 

今すごいから敬意を持つのではありません。
今何か持っているから敬意を持つのでもありません。


単に、ひとは違うから、敬意を持ちます。
分からないから、敬意を持ちます。


分からないこと、未知なこと対して、それを「恐れ」と見たり「くだらない」と見ることもできるし、驚きをともなった「敬意」とみることもできます。


どちらを選ぶのかは、選ぶ自分が決めることができます。

ならば自分はどちらを選ぶのか。問われています。


人の可能性を引き出す、やる気を引き出すというとき、-実際それを仕事にしているわけですが-、最初に決めておくこと、それが「敬意」です。


たとえ相手が3歳の子どもであっても、たとえ自分の部下であったり、教え子であっても関係ありません。


相手がいつまでたっても何も成し遂げなくても関係ありません。


それでも敬意から始めることが、もっともそのひとの良きものを、もっとも早く見られるような気がするのです。


ともすると慣れすぎて、近すぎて、いつのまにか自分寸法だけでひとを見てしまい、目の前のひとの大切なところに目をふさいでしまっていることは、したくない。

したくないっていう、荒っぽい願望ではありますが、心からそう思っています。

 


みなが親しいながらも、それぞれがそれぞれに敬意をもち、支援しあい、全員が可能性を発揮できている。


わたしの理想であり夢です。

 


わたしもふるさとに帰ると、甥っ子や姪っ子が「はるくん」と呼んでくるわけですが、純粋に呼んでくれる「はるくん」のままで、さらに加えてもっと成長できるようひとつひとつやっていきます。


どうも、今日は決意表明のようなブログになりました・・・

ご清聴ありがとうございました(笑)

 

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現実は違うよ、という方へ。

感動と共感、というとうさんくさい、見られることがあります。


現実は違うよ、と。
そんな方にこそ聞いてほしい。

 

現実こそが感動と共感で作られているんだよって。

 

 

 

ここ数年、ボールペンといえば!

と言いたいくらい、同じものばかりを買って使っています。

 

 

ZEBRA社の「SARASA」CLIPの0.5mm。
ジェルタイプでとにかく書きやすい。


いまでは他のボールペンを使うと、書いているときに感じる紙との微妙な摩擦の抵抗感にちょっとしたイライラを感じてしまい、生産性が落ちるのが実感できるくらいになりました。


しかもSARASAはクリップ付きですので、ポケットでもちょっとしたノートのはじにでもくいっと挟んでおくだけで、いつの間にか落とすこともなく、どこにでも携帯することができます。

 

もうひとつ、フタタイプのボールペンとは違い、クリップ付きプッシュ型のため、
机の上においていてもフタがなくなったり、ボールペンがコロコロと転がって
下に落ちてわずらわしいこともありません。

これまでボールペンに感じていた”ささいなストレス”がなくなる喜びに気付きました。

 

SARASAと他のボールペン、ぜひ試して比べてみてください。


わたしの日常にすっかりなじんだのがこのボールペン。

でも、高級でもなんでもないんですよ。

全国のコンビニに普通に置いています。
しかも100円程度。


芯を取りそろえておいて替えるという作業が面倒くさいわたしは、
芯のジェルがなくなっても、100円くらいならちゅうちょすることなく、
すぐに買いにいけます。

 

 

「おお、これはすごい!」という感動。
「そうそう、こういうのがほしかったんだ」という共感。

 

 

わたしにとって、SARASAのボールペンは、感動と共感のかたまりなのです。
涙を流すことのないし、肩を抱き合ってハグしあうことも無いけれど、
SARASAをずっと使い続けて支持して、応援しています。


水道がはじめてできたとき、どれだけ多くの人が

 

「きれいな水がいつでも飲める」

 

と感動・共感したことでしょう。


社会人になっていろんなことに興味を持ったとき、どれだけ多くの人が小学校、中学校、高校などで基礎的な教育知識をつけてくれたことに感動・共感したでしょう。
いまでは教育なんて受けさせないほうがいいなんてひとにはなかなか見当たりません。


日差しに体も溶けるような日に、そばにある街路樹の影のベンチに座って一息つける。
どんなにうれしいことでしょう。

 

なんでもそうです。

 

だれかが、いやこれまで生きてきただれもが、

 

 

「こうしたい」
「こうなったらいいなあ」
「こうすればよろこぶだろうなあ」

 

 

とそれぞれの場所で、役割で、大きいものも小さいものの、感動と共感を作ってきたのが「現実」です。その中にわたしたちは生まれてきて、いまはわたしたちが作っていっています。

 

たとえかすかなさざなみでもいい。
感動と共感を感じられたものだけが、ずっと残っていきます。


わたしにとってのそのひとつはSARASAだったのでした。

 

感動と共感こそが現実なのだ

 

 

と腑に落ちたとき、
世界は変わります。

 

その瞬間、今見ている世界がガラリと変わります。

 

あなたも世界を変えてみませんか?

 

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ただ一燈を頼め

一燈を提げて暗夜を行く。

暗夜を憂うること勿れ。

只だ一燈を頼め

佐藤一斎 『言志四録』

 

ときに古典の言葉、それも風景や情景とともに語りかける言葉に、無性に浸りたくなります。


佐藤一斎は江戸時代のひと。
西郷隆盛もこのひとの「言葉集」をいつもふところに入れて幕末に臨んでいたそうですね。


灯りをもって、闇で何も見えない暗夜を歩く。
暗夜に闇にに、不安、恐怖、心配、憂鬱を感じることはない。
ただただ、今その手に持つ灯りの照らすところ、それだけを頼りにしよう。


情景がぼーっと浮かんできます。


月も星も無い闇夜は、まさに闇、です。


わたしはあるとき、山深いところで、ひょんなことから寝袋で外にとまることになりました。懐中電灯を落とした瞬間に現れたその「闇夜」。


光がない世界。


内臓から”ゾワゾワ”が伝わってくるくらい、怖かった覚えがあります。


「顔の横30センチになにかがいる」


そんな想像は、もしかして本当のことだったのかもしれません。


「闇夜をどのようにして歩くのか」


それが人類のテーマだったようにも思えてきます。


火や電気はもちろんですが、社会制度やインフラや教育やさまざまな言葉など、1秒先もわからないこの世をいかに歩きやすく、たしかなものとして歩いていくのか、それをもとめて作ってきたようにも思えてきます。


ところが、どんなに整った環境の中にいても「何も見えなくなってしまうこと」が人を襲ってきます。


仕事、人間関係、人生の転機、会社の戦略・・・


闇。


「大丈夫だよ」
「これをこうすればいい」
「なんてことない」


それらはときに「闇夜」から聞こえてくる妖怪のささやき声に聞こえることもあるでしょう。


そんなときは、闇が闇であることをみるのではない。
ただただ、いまわたしたち自身がもつもの、それだけを頼りにせよ、と問いかけています。


どんな闇夜にあっても、これだけはわたしの光だと思えるもの。
どんな闇夜でも、わたしが手放さない限りわたしを照らし続けてくれるもの。


それだけを頼りにせよ、と問いかけています。


どうしても外に振り回され、外に心をかきむしり、外に評価を求めて右往左往してしまいます。


だからこそ一瞬立ち止まり、闇夜に目が慣れたときに、あなたの手に持っているもの。
もういちど確かめてほしい。


そう語りかけているように思えます。


・・・

 

そして・・・


暗夜に一燈あり。
一燈に照らされてぐいっとビールを飲む。

最高の夜の過ごし方ですなあ。

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銀座クラブでの熱い問答と失態。

まだまだ20代の若手時代。


銀座のクラブというものに当時の会社の社長に連れて行ってもらい、社長に絡んで、翌朝謝罪したことがあります。


ねぎらう気持ちもあって何人かの若手を食事に誘ってくれました。
まずは食事をしたあとに、せっかくだから経験だということで、銀座のクラブというものに連れて行ってくれたのです。


まるで自分から光っているかのような革張りソファーや、ピアノ生演奏がある、よく連れて行ってくれたな、というクラブです。。


緊張しながらも楽しく会話は進みます。

社長からもみなに「がんばっているな」などねぎらいの言葉をいただきながら、時間は進みます。

 


そして・・・お酒も、進みます。

しかも、銀座のクラブ。舞い上がっています。

 


わたしは当時

「この会社の社会における存在意義は?」

といつも考えていました。

 

自分は社会になくてはならない仕事をやるんだ、この会社も社会になくてはならない価値を提供しなければならない。そしてそれやっている。
だから広めるために商品を売ったり、相談に乗ったり、ライバル企業にも負けないようにプレゼン力を磨いたりするんだ、と気負いながら思っていました


それを

 

「この会社がなくなったら、社会やお客様はどうなるのか?」

 

という自分の中の質問で考えていました。

だからなくならないようにちゃんと考えていこう、やっていこうというわけです。

 

 

ふだんは自分だけの中の話でしたが、お酒も進み口も進み、社長にぶつけてみたくなったのです。


「この会社がなくなったら、社会やお客様はどうなるんですか?」

 

ふんふんと聞いてくれます。
一言二言返してくれましたが、わたしがどうも熱くなってしまい、

 

「この会社がなくなったら、社会が困りますよ」
「この会社がなくならないよう、もっと○○すればいい」
「この会社がなくなったら・・・」

 

もうわけわからず言っていたような気がします。

ついに社長から一喝。

 

「『会社が無くなる、会社が無くなる』って言うな!」

 

「あ・・・やばい。やりすぎた」

 

酔いも引き、話題は終了。

 

翌朝も「さすがに絡みすぎた。」と、目が覚めてもドキドキ。

シュンとして出社。

朝、社長室に行き、謝罪しました。

 

しゃあないなー、と半分あきれながらも、
「わかったわかった、気持ちは分かる。その気持ちでお前たちも考えてがんばってくれ」

と励まされました。


20代、数ある失態のうちのひとつです。。。

 

存在意義の究極の質問形として、

 

「わたし、この会社(ほかにもいろいろ)がなくなったらどうなるんだろう?」

 

と考えるのは、今もやります。
(その質問で酔って絡むことは、その後いまのところ、無いはずですが。)

 

余談ですが、たぶん転職や起業したことがある人は一度はこのように思ったことがあるとは思います。


「わたしが辞めたらこの会社は立ち行かないのでは? 迷惑をかけて混乱してしまうのでは?」

 

わたしも独立前は考えましたが、実際のところ、ちゃんと成り立っていました。
他のひとの話を聞いても、いなくなったらなったで、誰かが成長して代わりをしてちゃんと成り立つものですね。


それはそれとして、

 

「わたし、この会社(ほかにもいろいろ)がなくなったらどうなるんだろう?」

 

存在意義を考えるとき、究極、何がわたしなのかを考えるときの質問です。

不在の存在、という哲学存在論の質問にもつながっています。
恋人は、別れてみてはじめて、その存在の大きさに気付く、というような、無いことではじめて在るを感じる、そんな感じです。


わたしは何をもっとも大切にしないといけないのか。
わたしがこの社会に、この世界にいるとはどういうことなのか。
だからわたしは、この社会でこの世界でどう生きて、どう貢献するのか。

 

 

「ありがとう」とは、「有り難とう」。

 

すなわち、

 

「有る(在る)ことは本来奇跡のように難しいのに、それでも在る」

 

ということへの、存在することへの、畏敬の念からの言葉です。

願わくば、接する人が「有り難い」ひととなれるよう、仕事もそう、さまざまな関係を通じてお手伝いをしていきたい。


銀座の失態酒も、会社がビジネスで本物の価値を提供して社会によろこばれてほしい、その気持ちの現われなのです、、、なんてね(笑)


でも、、、ビジネスではなく目の前のあなたにはこう伝えます。


本当は「在る」だけでいいんですよ。
在るだけで奇跡なんですよ。

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なぜユダヤ人はしこたま世界ビジネスを創れるか

ノーベル賞を一番をしこたま獲得し、世界を実際に変えている実業家の多いグループといえば。


アインシュタイン、マイケル・デル、マーク・ザッカーバーグ、ラリー・ページ、アンディ・グローブ・・・


そう、ユダヤ人。


ユダヤ人の秘密、というと昔から神秘的で魅力的ですよね。
旧約聖書とか、失われた十氏族など、昔からロマンを感じさせます。
そういえばイエス・キリストもユダヤ人でした。


なぜそこまで世界史基準の人がボンボン出てくるのか。
いろいろな理由や説があるでしょう。


でもわたしが一番納得いったのは、


「ユダヤ人Why式思考法」


という本です。


ユダヤ人はユダヤ教という独自の宗教であり、教育システムがあります。


たとえば、


「はじめに神が天と地を創造された」


という旧約聖書の最初の一節があります。


ふつうに読めば、流してしまいそうですよね。
「じゃあ、次は何を創造したのかなー」なんて。


でもここからスゴい。


「はじめに」とは何の「はじめに」なのか
聖書という本のはじめにということか
創造される前は「無」だから、無のはじめということか。
無だったらそれはおかしいのではないか。


なんてことを延々と、場合によっては1日中、議論するそうです。


旧約聖書なんてウソだよ、とか、なんの役にもたたない議論でだから宗教は、なんて言うのはちょっとまった。


何かの正解を答えるのではないのです。


ただ、ひたすら考える。
このたった一行から読み取れるものを、ひたすら「なぜ?」「なぜ?」と考える。
一行の根本をこれでもかというくらいに議論して掘りつくす。


これを子供の時から延々とやっているのです。


この本によれば

ある製品があったら、


日本人は「もっと使いやすくするにはどうすればいいか」を考え、
でもユダヤ人は


「本来どうあるべきか」


を考えます。


普遍的ということは、国も時代も超えていついかなるときも成り立つこと。
そのレベルで考えます。
だから、ビジネスの商品やサービスも、人の生活や在り方を根本から変えてしかもワンダフルのようなものをバンバン生み出している、そう語ります。


わたしは、「わが意を得たり!」と膝を打ちました。


わたしもそう思っていたからです(いや、本当なんですよ・・・)。


わたしは


「世界はどうして在るのか?」
「人はなぜ理解しあえるのか?」
「なぜひとはよろこび、ひとは苦しむのか?」


こんな一見答えもないような、考えていると知られるだけで「ちょっと危ない」「無駄ばっかり」と思われがちな、そんな


「Big Issue」を考えることは、人類の進化に直結すると本気で思っています。


わたしはこのブログでよく子ども話題を出したり、子どもの意見をまじめに聞いたり観察したりすることがあります。


なぜか。


それにはこう答えます。


子どもは「なぜ?」を考えます


森羅万象、自分がいま生きているこの世界が不思議でなりません。
だから、「なんでこうなるの?」「なんで違うの?」「なんで? なんで?」と「なんで攻撃(笑)」をしていますよね。


でも青年から大人になるにつれて、


「どうやって?」を考えるようになります。


「どうやって豊かになるのか」
「どうやって人間関係を良くするのか」
「どうやってよい人生を送るのか」


森羅万象から、人間社会、ともすると目の前の半径5メートルへと意識が変わっていきます。


子どもは「なぜ」を考え、大人(青年も含む)は「どうやって」を考えます。

 

わたしも日々は「どうやって」の連続です。
そうやって生きています。
でも、自分の根本にBigな「なぜ」をいつも抱えていたい。


ほんとは大人も、たぶんあなたも、Bigな「なぜ」を抱えていることだろうと勝手ながら推測します。
どうぞ大切にしてほしいなあ、と心から思います。


わたしは人と、やわらかでも真剣に一対一で対話するときは、そのひとの本質、つまり「なぜ」に向き合うことを信条としています。


ほんとのところ、ユダヤ人でも日本人でもどっちでもいいんです。
わたしは日本大好きです。
このあと、日本酒飲みます。


しかし、、、、
ひたすらに「なぜ」を考えるその時間を大切にしていること。


これはあらためて自分にも取り入れたいなあとワクワクした、という次第です。

大変ですけどね(^_-)-☆

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ひとは二度確信したい

あの子はなにものだったのだろう?


ちょっとした大きな公園。
大きめ、長めのすべり台。

不思議な一瞬でした。


大人がすべってもちょっとしたスリルが味わえるくらい。
小学生くらいになるとよろこんでいますが、それ以下の子どもだとまだ足が震えるかもしれません。


澄み切った青空の日。
そのすべり台がみえるベンチに座って、知人と話をしていたときのことです。


ある4歳くらいの子ども、まったく知らない子供がトコトコとベンチの前にやってきました。

 

なんだろう? と思って


「どうしたの?」


と聞くと、彼は言います。


「こわーい。」


「?」 と一瞬彼をみたところ、彼はすべり台を指して言います。


「あれ、こわーい。」


どうやら、みんなが滑っているのをみて自分もすべりたくなってすべり台の前まできたものの、やっぱりこわくて、つい(なぜか)わたしたちに話しかけたようです。


「そう、怖いの?」


「うん」


彼は不安そうにうなづきます。


ところが、知人が「そっかー」と受け止めながら彼の目を見て、


「でも、大丈夫だよ。」


そう伝えると、子どもはニコ―っとして言いました。


「ぼく、がんばる!」


そのまま振り返ってタタタっと走りだし、すべり台の階段をのぼり、すべる前にもういちどわたしたちの方を見て、「がんばるよ」とキラキラした表情で伝えると、いっきにすべっていきました。

 


わたしたちは、やりたいと思い、興味をもってそれに取り組もうとしても、やっぱり二の足を踏むことがあります。


おとなでもやっぱりこわいものはこわい。
不安なときは不安です。


「思い切ってやれよ。」
「ただやればいいんだよ」


なんて放り出して、外野は言います。
たしかにその通り、やらないと何も進まない。


でもね。


おとなだって「大丈夫だよ」って言ってほしい。
そしてまさに踏み出そうとしたそのとき、もう一度振り返ってときにもやっぱり「大丈夫だよ、安心して行ってごらん」って見ていてほしい。


会社員時代、あたらしい案件、お客様からのクレーム対処、壁を乗り越えようとしているとき、「大丈夫だ。ドーンと行け。」と言ってくれるだけでよかった。


起業してつまづくことばかりでも、「大丈夫、絶対成功するから」と一番どん底なときに言ってくれるだけで、そうやな、また明日もやるかと立ち上がることができます。

 

「大丈夫、できる。できるよ」


と励ます、うながす。
ひとはそれではじめて前を向いてみたい、と思います。


でもひとはもう一度振り返ります。


そんな時にやっぱり見ていてくれること、そんなときこそ「うん。大丈夫。」と言われること。それではじめて確信して前に進むのです。

 


そのすべり台はちょっとした山の傾斜を使っていて、到着先はベンチからは見えませんでした。

 

かれは、すべって姿がみえなくなったあと、ふたたびわたしたちの前に現れることはありませんでした。下で両親が待っていたのかもしれないですし、また別のことに興味をもって去ったのかもしれません。


もう20年前の話。

今、かれはちょうど若葉が茂り青々と枝を広げる、その直前のはずです。

人生でも希望を持ってキラキラ生きていっているときなのでしょうね。

 

 

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リーダーは作られない、生まれつきのもの

リーダーは、作られるものではなく生まれつきのもの。


こんな研究結果が、イギリスの科学者から出されています。

 

 

 

 


http://karapaia.livedoor.biz/archives/52138515.html

記事にはこう書かれています。


「リーダーシップとは生まれつきの素質であり、誰もがリーダーになれるわけではない。動物の群れでも人間社会でも、各自の素質に従った天性の役割があり、それを無理に変えようとすると問題を生じる可能性がある。」

 

これ、、、はじめてみたとき、衝撃的でした。。

 

「お前がいくら頑張っても、もうリーダーは生まれつき決められている」

 

と言われているんですから。


ここはひとつ冷静になってみます。


確かに、自分の経験を振り返ってみても、


この人はリーダータイプだなあ


とか、


このひとはリーダーには向かないなあ


など、無意識に判断してしまっていることがあります。

 

会社や組織やチームの中で、よく見られる風景ですよね。
なんとなく、判断してしまっているって。


でも、


あれ?


この人、こんなにリーダーシップがあったっけ?


と、ぐーんと成長している人におどろくことがあるのも事実です。

 

そうです。
やっぱりここは一言言いたい。


このイギリスの研究結果は、魚や動物の群れを研究したものでした。


でも、わたしたちは人間です。


魚や動物や人間とと本質的な違いがあるのかどうか、神のみぞ知るの世界だとしても、少なくともわたしたちは「成長したい」という未来への意志を持つことはできます。
もっと違う自分になるために、考え、努力することができます。

 

だから、わたしはこう言います。


「生存競争」におけるリーダーだけならば、体力でもなんでも、生まれつきでもいいです。

 

でもわたしたちは、今生存するだけでなく、未来によりよく生きたいと願っています。

「未来を切り開くリーダー」ならば、未来をよりよくする「意志」が必要です。

 

未来への意志をもち、違う自分に成長したい、社会に貢献したい、そうなろうとずっと思い続け、努力しつづけた人がリーダーになります。

 

小さくてもいい、ささやかでもいい、ひそかでもいい。

その意志がまずあることから、リーダーは「創られて」行くのです。

 

「未来への意志を持てること。」

 

それもまたわたしたちが生まれつき天から授けられている、大切にしたい素質です。

 

 

追伸

 

もっともこの研究者は、「生まれつきだからあきらめよう」ではなく、「生まれながらの素質」や「天性の役割」をみなもっているからひとそれぞれが自分の素質や役割を生かすことが大切だ、と言っているのが、趣旨だと思います。

 

 

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超ピンチのときの指針

野犬に襲われたことがあります。


学生のときから含めると、ぱっと思いつくだけでなんと4回。


今考えれば、すべてよく助かってきました。

 

 


そのうち2回は、原付バイクなり自転車なりに乗っていたときのこと。


原付バイクのときは山の中の大学でした。
停止して止まっていると、野犬が3頭くらい周りを取り囲んでいます。


目が合ったら猛烈にこちらに向かって走ってくるのです。


突然牙をむいてぐるるーと言いながら、瞬時に筋肉を躍らせて襲いかかる姿。


これは怖い。


アクセル全開、まさに「ぶっ放して」逃げました。


自転車の時は社会人になって、宮崎で。
これもまた山道。
複数頭。


「うおおー」と叫びながらとにかく全速力の立ちこぎで逃げ切りました。


残り二つは歩いているとき。


どちらも一頭とはいえ、うなっています。
走って逃げても絶対追いつかれる、かみつかれる状況。


牙をむいている姿は、もうホントやめてほしい。

 

ところが、わたしはそこから無事逃れることができました。
それは小学2年生のときにある先生から教わったひとつの教えがあったからでした。

 

「野犬からは決して目をそらさないということ」

 

野犬の目を見続けながら、石を拾い、投げるてぶつけるふりを何度かすると犬の方から去っていく。絶対目をそらすなよ。


そんな教えでした。。


(そんなことばかり教える先生でした。。。。)


まさか実際にその教えを使う場面が来るとは。


夢にも思いませんでした。
思いませんよね。。。


はじめて野犬に襲われたとき、その時は大学生のときの歩きの時でしたが、はっとフラッシュバックのように教えを思い出して、目をとにかく見続けて、犬が去ったあとはもうもうへなへなと力が抜けてしまっていました。


あらためて思います。


本当にピンチになったとき、どうにも困ってしまいニッチもサッチもいかない状況のとき、ひとは自分が感じ取っていたもっとも大切なたった一言だけを指針にするんですね。


おそらく本能的に、この一言、を選び取るのです
それが自分の行動の指針となり、自分を支え続けます。


もしかして先生は、たくさん教えてくれたかもしれませんが、覚えているのはひとつだけ。


先生もたったひとつだけを教えたとのかもしれませんし、わたしが本能的にひとつだけを刻み込むように本能に覚えこませたのかもしれません。


たくさんあっても、自分が思い出す原則は、たったひとつ。


以来、ここぞというチャレンジや勝負の瞬間、またはピンチのとき、その時に合う「ひとつの言葉(方針)」を選び取って臨むようにしています。


あるときは、「全力でやりきる。」
あるときは、「ひとにやさしくする。」
あるときは、「やる気を起こさせる。」


ふだんは特になにも決めていないことも多いですが、「ここぞ」というときはすべて捨てても絶対捨てないひとつのことを決めています。


絶対捨てないひとつのことを決められた「ここぞ」は、途中いろいろあっても、100%の力がでますので、代えがたい充実感があります。


ふだんはたくさん学ぼう、受け入れよう。
いろんな角度から、いろんな視点から学ぼう。


そして、ここぞというとき、たったひとつ自分が選ぶとすればなんだろう。

 

野犬事件には(4回も)学ばされましたし、犬も大好きなのですが、、、、

 

もう、先生の教えを使う事態にはなりたくないなあ。

 

追伸

念のためです!
野犬対処法は、あくまでもわたしが勝手に選んで、たまたまうまくいったものです。
本当の対処法かどうかは保証の限りではありません。

 

 

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なんでわたしがこんな目に

仏典にこんな話があります。

 

昔は、まあそうだよな、とは思いつつも、その真意がよくわかりませんでした。

 

だから似たような状況でわたしが同じことをやっても失敗していたような気がします。

 

キサーゴータミーという女性が、生まれたばかりの子どもを亡くしました。

 

彼女は悲しみのあまり子どもの亡骸を、まるで生きているときの同じように胸に抱えて、村中をさまよっていました。

 

その村に行脚中のブッダが訪れました。

 

ブッダという、なにやら偉いといわれている人がいる、奇跡を起こす人がいる。

キサーゴータミーは人を押しのけ、駆け寄り、訴えました。

 

「この子を生き返らせてください」

 

ブッダは彼女をやさしく見て答えます。

 

「ならば、村の家庭から、ある木の実をもらってきなさい。

ただし一度も死人を出したことのない家庭からもらってくるんだよ。」

 

キサーゴータミーはすがるように、村中の家を叩いて歩き回りました。

 

ところが・・・

 

「うちは昨年、おじいちゃんを亡くしたんだ。」

「うちも3年前に父を亡くしてね。」

「わたしも、10年前に子どもが亡くなってるの。」

 

すべての家庭を回っても、一粒の木の実も手に入れることはできませんでした。

 

ところが、、、

 

キサーゴータミーの顔は柔らかくなっていることに、見る人がみれば気付いたでしょう。

村中の家庭を回るうちに、彼女は次第に落ち着いていたのです。

どの家でも亡くなった人がいない家庭はない。

 

ブッダのところにもどるときには、子どもの死を受け入れ、新しい人生を送る言葉を残し、子どもを静かに埋葬したのでした。

 

 

「なんでわたしがこんな目にあわないといけないの?」

 

という訴えがわたしにあったことがあります。

(いつの話か、どの話かは申し上げませんが。)

 

状況を整理するとしても、たしかに、なんでこの人がこんな目に?

と言いたくなる状況です。

 

本人の苦しみ、悩みは、もうその涙の顔からして伝わってきます。

 

なんとかしてあげたいと思いつつも、直接なんともしてあげることができない。

アドバイスをして少しでも良くなってほしい、そういった気持ちになります。

 

彼女自身も、幾人かの人に訴え、いろんなアドバイスをもらっていました。

なぐさめも、はげましも。

どの内容も正しいし、そのとおり、と思われるものばかりでした。

 

でも彼女は、それでもまた訴えるのです。

 

「なんでわたしがこんな目にあわないといけないの?」

 

本人に向かっていわゆる「客観的な正しいアドバイス」「適切な解決策」を出すことはできるでしょう。

経験豊富なひとならなおさらそうでしょう。

 

でも、本人が本当に、意識はされないまでも、本当に彼女が求めているものはなんなのだろうかと思うのです。

 

 

結果からいえば、なにも言いませんでした。

いえ、本当は何も言えなかったのです。

ただ、そこにいるだけでした。

 

 

しばらくして彼女は、次第に落ち着いてきたこと、そして、ほんのちょっと笑顔になったことを思い出します。

 

 

たぶんわたしたちは、何が大切なのかは、本当はわかっているのだ、と思います。

それを自分の中で受け入れることができないときは、何も入らないのかもしれません。

でもひとはいつか受け入れる強さを持っているのです。

 

ブッダの優しい目は、それだけを見ていたのだろう、と勝手に納得しています。

 

 

その後、彼女がだれのどんなアドバイスを受け入れ、行動したのかは分かりません。

彼女はまたこれまでのように朗らかに生きていくのでしょう。

 

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リーダーになるひとための肉の切り分け法

古代中国の話はおもしろい。

 

昔々の中国、2000年以上前、村で、まるで英雄のように尊敬されたのは肉を切り分けるひとでした。

 

肉?

 

そう、肉。

 

 

 

 

冠婚葬祭のときには、親戚や村中のひとが集まります。
羊や豚などの肉をもてなしの料理として宴会に出すわけですね。

 

たくさんの人が来ています。
そのたくさんの人に肉を切り分けて差し出すのは主人の役目。

全員が満足するように切り分けるのは難しいことでした。

 

まず量。
やっぱり原則は平等に。

でもお年寄りもいます。
女性も子どもも、体調の悪い人もいます。
そのひとに合った量は?


肉の部位もありますね。
やわらかいところ、かたいところ。
だれに、どの部位を差し出しますか?


そして切り分けて差し出す順番。
だれに一番はじめに。
だれは最後に。
どういう順番で差し出せば、場が納得するでしょう?


いやはや、考えるだけで大変ですね。


当時の肉は貴重なものでもあり、「いけにえ」という言葉もあるくらいですから、冠婚葬祭では、いまの感覚ではわからないくらい神聖なものでもあります。

 

全員が切り分けられた肉に満足し、宴会も盛大に、滞りなくおわることができたら、主人は英雄です。


宴会中は、みなそれぞれ宴会に夢中です。
でも宴会が終わったときにみな気付きます。


おおげさではなく、そのままの意味で英雄でした。
尊敬されて、村の長老となって村を指導する立場になっていくのは、肉をうまく切り分けられたひとたちだったのです。


いまもそう。


国や大企業のような大きな組織、そのリーダーもいれば、
中小企業や地域など、現場に密着した組織、そのリーダーもいます。
もちろん、部署や課などもあり、仲間同士、イベントなど小さなチームもあり、そのリーダーもいます。
家族もそうですね。


全員の様子を見渡しながら、どのひとりひとりも心地良く、こころよくなるよう心配りがされる。


どの方法がいいのかは一概には言えませんが、
実際に、気がついたら心地良くすごせていた、すなおにすごせていた、自分の力を発揮できていた、そんな経験を思い出すと、古代中国の話もシンプルなだけに本質的だなあ、と感動します。


つい自分もリーダーというものを、よくあるようにキャリアプランや組織スキルのように考えてしまいます。


でも、本質をみつめると、肉を切り分ける主人のような

 

 

「さあ、このひとたちみんな、この場が喜ぶにはどうすればいい?」

 

 

と考えられるひとがリーダーといえそうです。
すくなくとも、昔シンプルに生きていたひとたちは、そう感じていました。


わたしたちは、いまいるところで、何ができるかな?


そんなことを考えていると・・・肉、食べたくなってきました。

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さて、どんな表情していますか?

明治維新の立役者、大久保利通の目は冷たかったそうです。
その目をまともに見られる人はいない、と言われました。


かれは、話を聞くときに、目をつむっていました。
まるで眠っているかのよう。

 

かれに向かって、話をする訪問者は、
「わたしの話をちゃんと聞いていないのか!」
と怒ります。


利通は目を開けてじっと見つめて、こう答えたそうです。
「わたしが目を合わせて聞いていたら、あなたは話すことができないだろう」


訪問者はその目に立ちすくんでしまいました。


話を聞くって、奥が深いものだと、感じます。


利通は話を聞きたくないとか拒絶しているわけではありません。
むしろかれは、国家にとって役立つ話であれば、即断即決、すぐに取り上げて実行したくらいに、いつも人の話を待っているようなひとでもありました。


しかしかれは、幕末の激動を冷静に駆け抜け切っただけに、なんというか、相手の心の腑まで突き刺すような目です。


自覚していたようで、目を開けていると誰も話をしないため、あえて目をつむって相手が話しやすいようにしていた。


ちょっと思い出してみてください。
身近なひとでも、かつて会った人でも、家族でもだれでもいいです。


ひとはひとを思い出すときに、かならずそのひとを「表情」として思い出します。
笑っている表情、怒っている表情、いつもぶすっとしている表情、いつも微笑んでいる表情。


心理学の実験で、同じ人の「本当に笑っている顔」「愛想笑いで笑っている顔」両方の写真をみせて、どちらが本当に笑っているのかを当てる実験をすると、見せられた人はほぼ間違いなく、正しく「本当に笑っている顔」を当てます。


表情は顔のしぐさ。


ひとは言葉を話すより前に、まず表情やしぐさでコミュニケーションを取ります。
表情やしぐさは、つまり、動きです。
「動き」はひとにとって本能的な大切なことなんですね。


言葉にならないほどのかすかで微妙な動きをひとは察知して、コミュニケーションをとっています。


ひとは赤ん坊の時から、いろんなものに反応して口に含んだり手を伸ばしたり、みずから動いて世界やひとのカタチを知り、自分の動きを修正して「ひと」になっていきます。
それは生きている限りずっと続きます。


「40歳の顔はその人の履歴書」なんて言ったりしますね。


表情には、その人が世界にたいしてどう動いてきたが刻まれます。


つい先日、知らない人ですが、額にとても大きな縦皺つけている壮年男性をみました。


もし履歴書だとしたら、この大きな縦皺はどんな意味をもっているんだろう?
彼を思い出すとき、ひとはこの縦皺を思い出すのかな。


ただ、ちらりと見ただけでも、たくさんのことをコミュニケーションした気持ちになりました。


自分だったら、どんな表情のひとが好きかな?
どんな表情のひととだったら付き合いたいかな?
もし自分が死んだあと、どんな表情で思い出してもらいたいかな?


なんて考えてみると、言葉だけでなく「動き」から変わってくる、そんな気がします。


動きはひとがひとと世界に与える影響力。


どちらかと言えば言葉の社会で生きることが多いわたしですが、ちょっと度忘れしていた動きの大切さ、思い出しました。


さあ、今日は、どんな表情ですごそう。
ワクワクしてまいりました。

 

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大人になるとわかる価値

「バラのにおいがするー」


なんて駆け寄るのは、子供ではなく大人の方。


近所の公園にはバラが満開です。
赤、黄色、白、桃色、色とりどりのバラの数々。


子どもたちももちろんかわいいですが、これだけのバラだとかえって大人の方が「価値」がわかるというのでしょうか、大人がはしゃぐように写真を撮ったりにおいをかいだりする光景はニコリとしてしまいます。

(女性だけでなく、男性も、若い人だけでなくお年寄りも)


それくらい普通の住宅地の公園としては、この公園はとてもバラが充実しています。
この時期、毎年の楽しみ。


毎年、思います。
この時期だけでなく思います。
これを思うたびに、こうやって社会は支えられていると感動するのです。


つまりこの公園は「メンテナンス」が行き届いている。


春には、菜の花が咲き、桜が咲き、夏にはひまわりが咲きます。
伸びた樹木の枝はきれいに剪定され、壊れた遊具は直され、ゴミも処分されます。


実際にやっているのは、市が委託した業者です。


あちこちで荒れた公園を見るとなんだか悲しい気持ちになりますが、いつでも整えられて過ごす人が気付かないままにとても心地よい環境を作る、この市や業者の活動はすばらしいといつも思っています。


街は、社会は、環境は、それが快適にすごされるとき、誰かがそうしようと思ってやり続けています。


まるで当たり前のようにわたしたちはそれを利用していますが、それがなくなった時、存在の大きさに愕然とします。


ナポリでは行政が滞り「ゴミ」が処分されずゴミの街になったというニュースは耳新しい。


人が済まない家は、ただ人がいないだけなのに、急速に荒れ果ててしまいます。
田舎なら、よく郊外にポツンとそんな荒れ果てたボロ家を見かけたものです。


いつも何かあると愚痴を言っていたあの人が、急にいなくなるとどれだけ自分の心を楽にしてくれていた存在かわかる。


歴史的なものもそうですね。
何百年も前からのものを延々と伝え続ける、その凄みが、自分の生の時間と照らし合わせて実感できるのは年を取る効用です。


思いっきりアクティブに人生を謳歌する。
自分の納得いくまで自分のことだけを考え、悩み、やってみる。
人のために、人を幸せにする活動をたくさん行う。


こんなある意味「目立つ」活動ができるのも、その背景があるから、それを作ってきた人たちがいるから。


近所の公園のバラを見るたび、背景まで世界が広がります。
いま自分がしている活動も、目立つこともあれば背景を地道に作ることかもしれない。
その結果が、このバラのようなものならば、やる気も出るってものです。


業者さんは仕事の終わりに、「今日もよくやったなー」とビールを飲むのかな。
これはまたビールを作っているひとたち、Good job! ですね。

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ひとを理解するってここから・・・

「それでも地球は回っている」でおなじみのガリレオ・ガリレイは、
世界ではじめて望遠鏡をつくり、当時の科学者たちに見せました。

 

遠くに小さく見える街の塔が、望遠鏡をのぞくとなんと間近に見える!
ガリレイの望遠鏡というものに、驚きと称賛です。

 

「ほら、お月様だって見えるんだよ」


ガリレオは月に向かって望遠鏡をセットし、科学者たちに見せてみました。


すると・・・


「ガリレオ・ガリレイ、お前はインチキだ! だましやがって。」


ガリレオ・ガリレイの苦難の日々がはじまったのでした。。。


わたしたちは、こんな場合、たいてい「科学者」の側です。
ガリレオ・ガリレイじゃないってところがまず大切です。


実はこの望遠鏡、当然のことながら何か細工をしていたわけではありません。
ほんものの望遠鏡です。


もちろん科学者たちが見たのも、まぎれもない「月」でした。
いまのわたしたちにはおなじみ、丸く明るい月の模様はうさぎがお餅をついているところではなく、クレータに影ができたものですね。


同じクレータとその影を、望遠鏡で見ていたわけです。

しかし・・・


彼らは見ていながらも見えていなかった。


街の塔は、かれらがふだん意識しなくてもつねにある「見え方」の内側にあります。
街には塔があり、遠くあるものは小さく見えて、近くにいくほど大きく見える。

 

望遠鏡で間近に見えたのは、びっくりはしましたが、それはあくまでも彼らの「見え方」の延長線にあったのです。
言いかえれば「自分が思う世界」の中の出来事、でした。

 

でも月は違います。


月、といういうよりも、地球や月や太陽や惑星は、その時代は「天上」の世界でした。
神様が作った世界だから、完璧でなければならない。
真ん丸であり、美しくなければならない。


だからクレーターのような凸凹、まるで砂漠のような岩ころだらけの寂しく醜いなんてことはあってはならない。


それが彼らの「見え方」。
「自分が思う世界」だったのです。


その「自分が思う世界」からは思いもよらないものを見せられても、そもそも月だと思おうなんてことがない。別のものを見せられた、と思ったわけですね。


100メートル走を15秒で走っていた人が、10秒で走るようになったらびっくりはしますが、別の世界の話とは思えません。


ところがです。
15秒で走るもなにも、走って一瞬止まったと思った瞬間に100メートル先にいたら、信じられません。
実際に目の前で見てもなお、幻のようにみえるのに、それが映像で見せられたとしたら、まず作り物として信じることはないでしょう。


人は、1メートル、2メートル、10メートル・・・・98メートル、99メートル、100メートル!という形で、連続して距離を縮めていくもの、と思っているからです。
それが当たり前であり、「見え方」であり「自分がおもう世界」です。


そうじゃない世界に出くわしたとしたら・・・


何百年あとの未来なのか、宇宙人なのか分かりませんが、もしかして今のわたしたちの知らない法則や技術でそんなこともあるかもしれない。


ガリレオの時代の科学者もまさにそんな形でした。


彼らがダメなのではありません。
彼らは彼らなりに、当時の科学に誠実だったのです。
あえて言えば、やっぱりガリレオはすごかった、先取りしすぎていたとしか言いようがありません。

 

これは科学の世界の話ではありません。
わたしたちの日常の話です。

 

「良いこと」であれ「悪いこと」であれ、自分が思う世界があり、わたしたちはその世界の中で生きています。

 

人には優しくすべきだ、という世界もあれば、
人には厳しくするからこそいい、という世界もあります。


利益にならないとやるべきでない、という世界もあれば、
利益でやるなんて汚い、という世界もあります。


一方の言うことは、もう一方にはそもそも理解ができません。
お互いの見えるものが全く違います。

 

科学の場合は、「実験」「観察」という共通言語があります。
それを通してとつひとつ合意を重ねていくことができます。


では、いまわたしたちが生きるこの社会は?


話し合う?


いやいや、でも、


話し合いはよいことだ、なんて世界もありますし、
話し合いなんて意味がない、なんて世界もあります。


成功体験で見せる?


いやいや、


成功体験も「これが成功だ」っていう枠の世界の話。
「成功」が良い、と思わない世界もあります。


「客観的に言えば・・・」なんて言うことも、その人のおもう「客観的」です。


いやはや、何が何だかわからなくなりますね。
メンドクサイ、考えすぎなんじゃないの?


でも、世の中で起こっている問題、とくに人に関する問題は、ほぼこれです。


「そもそも、世界が違う」。


それなのに


「自分の世界」でみな話をしている。


汚くいえば、
「自分の世界」を基準にして「他の世界」を上とか、下とか言っているわけで、その衝突がさまざまな問題を引き起こしています。

 

もしわたしたちが出発するとしたらここからではないか、というのがワタシの直観です。

 

このことにはまっすぐ、謙虚に。
そのうえで、自分はどうするのかを決める。


人に寄り添うひと、リーダーシップを発揮してものごとをどんどん進める人、どちらのスタイルにも魅力的なひとはいます。


人に寄り添うようでなんだかべったり。
リーダーシップのように見えてなんだかドテっ。
一見似たようなスタイルでも、全然違う感じを受けることもあります。


この感じ。
この違いってなんなのでしょう?
自戒をこめて。


ひとはそれぞれ世界は違っても、そのうえで、なりたつこと。
ひとが、ひとりひとりそれぞれすなおに生きてなお、全体として、どの世界にいるひともなぜかハーモニーを感じて、かつ面白い世界。


そのヒントがガリレオ・ガリレイの話にもあるような気がします。


・・・・


どうにもごちゃごちゃしてきました(笑)
月でも見上げて、一杯飲んでゆっくりしますか。

 

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ありのままを考える。

アナと雪の女王という映画が大ヒットしていたのは、もう何年まえですかね。
小さなこどもたちも、「ありのままで~」なんて歌っていて、町中で流れていました。


「ありのままで~」というフレーズはずっと耳に残っていますし、つい口ずさんでしまいます。


えー、実はわたくし、映画はみていません。

(いずれ、見ますので・・・)

 

その分、純粋にそのメロディーとフレーズだけが耳に残っています。

 

「ありのままで」

 

どうしてこんなに惹かれるんでしょう?

 


キラキラ女性講演会に行ってきました。

https://www.facebook.com/kirakirajosei


古市佳央さんの一般社団法人きらきらが主催されています。
さまざまな背景やや思いや夢を持っている女性6名が、壇上で講演会形式で語ります。


大勢の前で話すのは初めてという方が多く、練習はしていても、いざ壇上となると思いがあふれて立ちすくむ、ということもしばしば。
かえって彼女たちの思いの強さを肌で実感する場面でした。

 


ありのままのわたし。

 


ありのままのわたし、は全員の共通テーマだったように思います。
そしてそれは、彼女たちだけでなく、わたしたちのテーマでもあるように思いました。


ありのままってどういうことなんでしょう。


やりたい放題わがままがありのまま?
ひとは押しのけても、自分の主張を通せばありのまま?
開き直ればありのまま?
家の中で裸で歩き回ればありのまま?

 


いえ、いずれも違うように思うのです。

 


ありのまま、ということを語るとき、みんな自然です。
肩肘を張って、大勢に向かって、挑むように「わたしはありのままだ!」と話すのではありません。


何か力が抜けたような、

失敗もつらさも、もちろん楽しさも成功も、嫌なところもいいところも全部受け止めています。
自分自身を信じる、と言いますが、と同時に、周りのひとのことも信じ切っています。


だから、ありのままでいるとき、みな感謝を口にしています。
赤ん坊のように生きていることを信じ切って、

ただただ自分の存在を生きていることへの信頼、

周りへの信頼にゆだねているという雰囲気さえ感じます。


信じ切ってゆだねているから、余計な力が抜けています。
だから本来自分が目指したいと思う方向に自然と向かい、

また抜けた力がまるで光が一点に集まり炎を起こすように、自然な情熱が沸きあがっている。


そんな気がするのです。


存在をゆだねることができるって、どれだけ贅沢なことでしょう。

 

 

そして同時に思いました。

 


さまざまな相談を受けたりすること、

それは個人的なことだったりビジネス的なことだったり、

あります。


そんなとき、たいていの人は何かしらのパターンをもって、

そのパターンを当てはめようとします。


しかしもし相談の目的が、

その人がありのままの姿で100%以上生き切るきっかけをちょびっと提供するだけ、

だとしたら。


ただただ相手がありのままで在ることができるように、

存在をゆだねてもいいような存在になることだけが、相談される側の役割かもしれません。


なぜならそれだけで、相談者はやる気をもって情熱をもって自ら道を切り開いていくのですから。

 


「ありのままに~」


ひとりひとりがありのままに生きてなお、全体として調和してなおかつ面白い社会。
そんな社会になるといいなあ。


よし、さあ、また成長しよう!

 

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やる気を見つけるヒント

新入社員のときから2年間、プログラムを組んでいました。

 


もう、ほんと、なんでだろう・・・
縁もゆかりもなかったのに。。。

 

 

システムとは何らかの仕組み作りのことだろう、自分は仕組みづくりにかかわるんだ、くらいの気持ちしかなく、それがまさかコンピュータープログラムで作られていて、それもシステムと呼ぶとは。

 


たしかに、そう、面接では「最初はSE・システムエンジニアをやるか」と聞かれました。

 

当然SEが何かはよくわかりませんでしたが、まあ3年くらいは何やってもいいだろうという感じで「はい!」と答えたわけです。

 

すると、入ってみたらまさかのプログラムを作る人、技術者だった。

技術者は尊敬しますが、自分がその立場になるとはみじんも思っていなかった。


新人研修ではプログラムの基礎から教わります。

 

・・・これがまた全く分からない。
基礎の基礎であるひとつの式の意味からわからない。

だから次に進むこともできず、いつも詰まってばかり。


社長からは「一番できない新入社員」と言われ、ときにマジの知恵熱も出て、大変でした。


同期は楽しく「いい奴ら」で、気持ち的には落ち込まずにいられたのは救い。

でも、よくもまあこんな世界に入ったもんだとは、自分で選んでおきながら驚く毎日でした。


研修も終わり、現場配属。


相変わらずさほどできたわけでもないですが、仕事っておもしろい、と感じて「よし、やってみるか!」とやる気が出て、自分なりに成長も感じられるようになったのは、ここからでした。


それはシステムが実際にどう使われて、どのようにお客様(社会)に役立っているかが実感できたとき。

かっこよくいえば、システムという無機質なものに血が通ったのを感じた瞬間、と言えばいいでしょうか。

 

自分がひとつこの画面を直したら、それだけ使い勝手がよくなってお客さまがよろこぶ。
自分がひとつこの帳票を直したら、業務プロセスや、お客さまの判断が変わる。

 

ひとつひとつは小さなこと。
技術で言えば、ものすごく簡単なこと。


でもそれが発見でき実感できたときはうれしかった。

 

それからは一つ上の先輩と「どっちがお客さまからの電話に早く出るか競争」をしたり、さまざまなお仕事の本を読んではどう反映できるか試したり、大変でも楽しい仕事への没頭の「若手青春ビジネスマン(^^)/」の日々が始まりました。

 

やる気の出ることに出会うと幸せです。


やる気、それはモチベーション、その気、といってもいいかもしれません。
要は、「自らやってみたい、やってみよう!」 と思う気持ちですね。


これが人にとって非常に大切である、ということを今もますます、実感しています。


「自らやってみたい、やってみよう!」 というものがウズウズ止まらなくなると、人から見て苦労や大変だと思うことも、それ自体が本人にとって楽しくてたまらなくなります。


わたしの場合は、
プログラムやコンピュータそのものが好きというよりも、その社会的意義やひとへの役立ち方がやる気のポイントでした。


もうひとつ言えば、それが“実感”できたこと。


「自らやってみたい、やってみよう!」 は
外から鼓舞するだけではなかなか一筋縄ではいかない。
内部から思わず出てきてとまらないようなもの。


湧き出る、という言葉がしっくりきます。


必ず湧き出る、いや、すでに湧き出ているものは ― たとえ今は自覚できていなくても ― だれもが持っています。


見つけるヒント、を少し。


・昔からそういえば気が付いたらやっていた、続けていた
・仕事していて、つまらないことはつまらないけど、この時はおもしろく感じる。
・本棚、DVD、その他、身の回りにあるものを見たら、なんとなくテーマに共通点がある。
・これをやっているときは、努力しているという気持ちもないくらい、自然。
・こんなこと言われたときは、うれしい。


特別なことじゃない、あなた自身が「あたりまえ」すぎるものに目を向けると、思わぬ源泉に出会うことがありますよ。

 

さあ、さっそく部屋を見まわしてみましょう。

 

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大人でも粘土をこねたい時がある。

 

たぶん小学生以来だと思います。
粘土を買いました。
子ども用にではありません。
自分が使うためです。


突然ですが、粘土って、どこに売っているか知ってます?
買おう!と思っても、あれ? よくわからない。
はじめはとまどいました。。。


もっとも、探してみれば単純。
文房具屋さんにありました。
まあ、そうですよね。


よく名前は知っているものでも、

いざとなるとどこで手に入れるのかわからなくなるものですね。


そんな小さなとまどいを楽しみながらも入手したのは、

こねて、削って、目の前に置くため。


思うがままに何かの形、名前もつかないような形を作って、目の前におきます。
ぼんやり眺めたり、小さく分けたり、丸めたり、穴をあけたり、模様をつけたりと、

ただただ心の赴くままにまかせます。


おっと、ひとついい忘れました。
粘土をこねだす前に、ひとつだけテーマを決めておきます。
何かしら回答がほしい課題や問題。
具体的なものでなくともかまいません。
テーマを決めて、粘土に触り始めます。


何をしているか。


これは発想、アイデアを出すためのものなんです。
自分の「無意識」と「身体」に聞いてみて、出そうとする試みです。


粘土発想法というか、粘土による無意識思考活性化法という感じですかね。


ちなみにいえば、もしかして粘土を使った思考法はどこかにあるのかもしれませんが、
今回は何を調べたわけでも知っているわけでもありません。
オリジナルです。
いつもやっているものではなく、ためしにやってみた、というもの。


粘土発想法をやろうと思ったきっかけはあります。


さまざまな問題があります。
だれもがそれを何とかしようと日々考えたり、悩んだりしますよね。


感覚的なものですが、どうも考えが煮詰まったりしているとき、そのテーマと脳みそがべっとりと距離ゼロでこびりついて、意識や無意識の活動が泥に足をとられたようにズボ、ズボと自由に動くことができない、そんな感覚があります。


どうでしょう・・・ありませんか?


だからよく紙に書き出してみたり、さまざまな思考ツールやフレーム(有名なところではマインドマップとか、コンサルタント本などにあるようなもの)を使って、こびりつきをできるだけきれいに取り出して、客観的に見てみようと試みるわけです。
または人に相談したりもしますね。


紙に書き出す効果は、十分に実感されていますし、わたしもそう思います。
紙は二次元。だったら三次元でもやってみよう。


ざっといえばそんな経緯で、粘土です。


と、まあ、粘土をこねつつ、あれこれとしてみた。
さあ、では粘土発想法の効果は、、、


可能性は高い!


一方、もうすこしやり方や進め方に工夫は必要。


今回はこのような結果になりました。(わたし1人調べ。)


グーッと、いろんなものが働き出している感覚はある。
でも、まだ不透明。
なんとなく詰まった感覚の部分をやり方や取り組み方を工夫してどうにかすれば、使えるツールになりそうです。
もしかして慣れの問題かもしれない。


・・・


今日のテーマは、粘土発想法について、ではありません。
どうやって思考、発想、アイデアの出し方を高めていくか、です。


水をよく流すために水道が作られ、
人やモノをよくいきわたらせるために道路がつくられました。
風のとおりをよくするために窓を開けます。
そうそう、気持ちをすっきりさせるために、掃除や整理整頓もしますよね。


自分の中で、もやもやがあったり、悩んで進まないことがあったときに、
もやもやや悩みの内容、「中身」をそのまま考え続けることも大切ですが、
どういう状態であれば「流れる」か、「とおりがよくなるか」に取り組むほうが効果が高いことがよくあります。


血管が詰まって血流が悪くなると、どんなにいい栄養も体にいきわたりづらくなることといっしょです。(医学的にも、たぶん、合っていますよね???)


「あら、こういう状態にしてすっきりできたら、一瞬で回答が浮かんだ、今まで悩んでいたり、やる気に詰まっていたりしたのは何だったんだろう」


たしかにあります。


わたしは誰かに勝る専門性を目指してキャリアを積んだわけでもなく、ある特定分野の知識がむちゃくちゃ豊富なわけでもありません。


たとえば哲学専攻とは言ってはいますが、「哲学の知識」が人より多いわけでもありません。ただ、自分が「哲学する」。そのために必要なものを、または基礎として、学んできたという感じです。


弱点でもあり、ずいぶん悩みもしましたが、それはそれでいいのかな、とも思っています。勝る専門性、無いんだもの。


知識ならば必要に応じて勉強します。。。


こうやって、自由に考えることを考えたり、本質だけを考えて

「なるほど! そんな風に!」

というような、小さくても大きくても、発見をともなったり、驚いたり、概念が変わったりするような考えや発想やアイデアに出会い、さらにそれが喜ばれたり広がったりすると、むしょうに楽しくなってきます。やる気が出てきます。


そういうものにひとつでも出会って、それを(たとえばお客様と。もちろんだれとでも、大人でも子どもでも)共有して喜び合うために、あれこれと取り組んでいる、そんな感じです。


わたしの場合ならば、こんな風な位置づけで自分のことをとらえると、とても「流れたり」、「とおりがよくなっ」たりします。
つまり、ありようを言えば、自分の力が発揮できます。


自分自身のとらえかたを、とらえやすいようにとらえる。
これもまた「流れる」「とおりがよくなる」秘訣ですね。


最後に。


粘土発想法、使えるものになるかなあ。どうかなあ。
はじめるまでの準備と終わった後の処理がメンドクサイという弱点はあるけど、セミナーなど、まとまった時間の場面では使えそう。


こんなこともまた楽しい。

 

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自分の大切にし方、2つの違い

最後まで書いて、この冒頭を書いています。
ようやく違いがわかる大人になりました。
次の休みがとても楽しみです。


5月のゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたでしょうか?
長い長いゴールデンウィーク、このまま休みたいと思ったひともいれば、
もう休むのには飽きた、早くはたらきたいというひともいるでしょうね。


わたしは研修であったり、人に会ったりと予定はありつつも、できる限りじっくり自分の時間を取ろうと努めたゴールデンウィークでした。
こんなときこそ、課題、とはいってもたまった仕事や本などではなく、「思考の課題」を考える時間にしました。


つまり考えたいと思っていたことを、まあ、あれこれと考える時間ですね。


自分の仕事や人生のこれからに関することもあれば、もうすこし世間離れしたこともあります。

(たいてい、哲学とか歴史とかそんなことですが、わたしにとってはもっとも幸せな時間。ロマンですよ、ロマン(^^))


「これ、ずっと考えたかったんだー」

 

という、そう、浄化感、カタルシスがありますね。


ずっとどこかにこもってというわけでもなく、いろいろ出歩いたり体験したりすることも含めて、脳みそだけでなく、身体的にも考えて、できる限りクリアに、フラットになるよう心がけています。

 


そんなこんなの最中に気づいたのですが、

クリアにフラットになろうと思うと自分の状態に気をつけます。

 

すると、自分を大切にすること、言い換えれば自分との過ごし方に違いがありました。

 

 

そう、


「リラックスする」ことと、「自己を整える」ことって違うことなんですね。


お風呂、入ります。
自然の中を歩いたりもします。

頭をクリアにするために、ほかにもぐっすり寝たり、ぼーっとカフェに行ったり、マッサージを受けたりもしますね。


ほかにもアロマや、日向ぼっこや、映画を見たりもしますかね。


リラックスです。


このリラックスの感覚って、「空白」という気がします。


一方、
とにかく散らかして発散して考えるときに、マインドマップをガーっと書いたりしますが、
すっと整理するときには、それなりに丁寧に書きます。


背もたれに背中をのっけて頭に腕を組んでたりしたかとおもうと、ある一瞬を境に、姿勢を正して椅子に座ります。


もっと言えば、床でゴロンゴロン横になっていても、ときにはびしっと座禅するときもあります。


こんなときは、整える、自己を整えているときということができます。


自己を整える感覚って、「透明」という気がします。

 

「空白」と「透明」


似ているようで、異なる感覚であり、
どちらもあってこそ、さまざまなことをクリアに考え、しっかり感じることができる、ということに気づきました。


「空白」を欲するときは、いわゆる「余裕」がなかったり、視野が狭くなったり、「ストレス」を感じたりしたとき、「自分が狭くなっている」ときです。


狭くなっているのスペースを本来のものに戻すためにリラックスして「空白」を作りたい、と思います。


「透明」を欲するときは、方針に「迷った」り、心が「濁った」り、さまざまな考えに「振り回され」たりと、「自分が揺らいでいる」ときです。


揺らいで、あたかも波がざわついているときに抑えてまっすぐにしたいときに、自己を整えて「透明」にしたい、と思います。


「空白」が少なければ、余裕がなくなり、考えや感情が狭くなる。
「透明」が少なければ、迷いや濁りが多くなり、考えや感情がぶれてくる。


「空白」が多くても、「透明」が少なければ、一向に自分の方向性は見えない。
逆に
「透明」が多くても、「空白」が少なければ、受け入れ感じることが少なくなる。


この違いを知ることで、もっと自分のトータルな成長に時間を使い分けることができそうです。これから空いた時間や休日の過ごし方がもっと有意義に楽しみに使えそう。

 


・・・というところまで書いて、ふと思い出しました。


余談ですけど、最後に。


座禅なんて書いたものだから思い出しました。
むかしから仏教のテーマに、漂泊者(旅人のような、ふらっとしているような生活をしているひと)と、厳しい修行者の対比があります。


漂泊者は「空白」を極めたひとと、修行者は「透明」を極めた人。


なるほどー。
昔から、このふたつは人類が自分に向き合うテーマだったんですね。

やっと違いに気づきました。


ひとつ違いの判る大人になったということが、またうれしい休日の終わりでした。

 

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地中海と郵便物と便器

-郵便物が届くまでに一ヶ月かかった。
        その間に歴史が変わった。-

 

16世紀の地中海。
当時はフェリペ2世のスペイン帝国が全盛期を迎え地中海にも力を及ぼしてきた時代のこと。

 

フェルナン・ブローデルという歴史家の歴史本「地中海」を読んだ時の驚きです。

どう歴史が変わったのか、ゴメンナサイ、事件の内容はうろ覚えです・・・


はっきり覚えているのは、とにかく郵便が一ヶ月かかったという情景。


ある重要な手紙を遠くの地域に郵送したのですが、当時は舟または馬や徒歩です。
陸上の地域だったため馬や徒歩。郵便が届くまでに一ヶ月かかりました。
しかしながら、その一ヶ月の間に政治状況が変わってしまいました。
もし手紙がその前に届いていれば防げたのに。
手紙の指示の意味がなくなった、と、まあ、そのような内容です。


内容を忘れても、この部分が妙に印象に残っているのは、情景が体の感覚とともに、ありありと想像できたからでした。


一ヶ月もかかる道のりを、手紙を託された人はできる限り急いで歩んでいきます。
道路が整備された道もあれば、岩ころの多い山道もあるでしょう。
からりと雲ひとつ無い真っ青な日もあれば、じとっと小雨が続く日もあったかもしれません。汗をかきかき、日が山向こうに沈むと盗賊の危険も感じながら、灯りのともる宿屋に泊まり泊まり、先を急ぎます。


そんな情景です。
事件の内容よりも、身体的に物理的に、こんなに苦労して郵便を届けていたのだということの方が大きな事と思われたのです。


いまでは1、2日で郵便が届くことを普通に思っています。

でも、そうだよなあ、郵便が無い時代もあったし、一ヶ月もかかるときもあったんだ。そりゃあ、その間に物事は動くよね。。。そんな生活の仕方、身体が生活している背景が左右するんだよね。。。

そんな感想を抱いて、「地中海」の事件以外のことに思いをはせていたわけです。


さまざまなことを想像したり、産み出したりするとき、

「どこまでありありと想像するか」

が、その想像の先に目指していることの質を決めると思っています。


どこまで実際の身体感覚により添えるか、と言い換えてもいいですね。


あの郵便配達人は、どんな汗をかいただろう?
途中からめんどくさくなって、木陰で何度も休んだりしたのかな。
いやいや、フェリペ2世に怒られて冷や汗をかくどころか首を切られるかもしれないから、膝が痛いのも我慢して、本当は2ヶ月かかるところを1ヶ月で走り抜けたのかも。。。。


まるでその郵便配達人になりきったかのように、そのときの感じ方、身体の様子をありありと想像すると、同じ事を読んでもまったくその深みが違ってきます。


突然ですが、わたしは半分冗談、半分本気で、「便所だけは日本は西洋に負けた」と笑い話をすることがあります。


和式便所はどうしてもしゃがみこんで用をたすので、膝がきつい、足や体の置き場、脱いだズボンの脱がし方などなど、用をたすにも一苦労。
でも洋式便所は、座って安心、膝も安心、足や体の置き場に苦労することも無い、なんて、そんな感じですね。


だれが発明したのかは知りませんが、わたしの「身体」感覚からすれば、これは世界に幸せをもたらしたすばらしい発見とイノベーションだと思っています。


わたしが目指すところのひとつは、まさにこんな、身体感覚が変わり、つまり具体的に行動や生活様式が変わるほどのアイデアやイノベーションとその支援です。


いわば、それが世界を変えること、と思っています。


その第一歩が、まさに身体感覚でありありと想像すること。


もしあなたが体が感じるほどにありありと想像してしまうこと、実際に感じてしまうことがあれば、ぜひ大切にしてください。
そこに世界を変えるヒントが隠れています。


もし16世紀の地中海にヘリコプターがあれば・・・
もしだれも洋式便器を思い浮かべなければ・・・


今頃どんな身体感覚で生活しているんでしょうね。

 

追伸

考えるって、想像するって、楽しいです。

 

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岸を離れる勇気

連休が終わったとき、いい時間を過ごしたなあと充実感をもったり、これまでに来た道、これからの行き先をまた心あらたに確かめたいと思うのは私だけではないでしょう。

 

子どものころに行った、あるだれもいない池。
そこには乗り捨てられてペンキもはげたような古い手漕ぎのボートがありました。
ぷかぷかと浮かんでいます。
ふざけてちょっと乗り込んでみると余裕で浮かびます。

すこし力を入れて棒で岸を押すと、ボートが岸から離れはじめました。
急に怖くなり、あわてて近くの木をつかんで岸に戻った記憶があります。

江戸時代。
実のところ、流通が全国的に発達した時代でもあります。
陸よりも、断然、海。舟です。
大阪を中心に、北海道や東北の物産までが日本海から下関をぐるりとまわり瀬戸内海を通って集められていました。
大阪からは、太平洋を突っ切って江戸まで運ばれます。

このときの航海は、今とは違います。
基本は「沿岸航行」でした。

 

陸が見えるくらいの距離を保ちながら航海する、ということで、直接目で見ることが基本の時代。

陸が見えなくなるのはとにかくおそろしい。
方向が分からなくなりとたんに遭難の危険があるからです。
だから、岬や半島など、海から見て船の目印になるようなところは「聖地」や「神様の場所」として敬われました。

そんなことに思いをめぐらすときに出会った言葉が

「岸を離れる勇気がなければ、新しい大洋はみつからない」

フランスの作家、アンドレ・ジードの言葉。

そう、鎖国の江戸時代でも、陸の見えない先には何もなかったわけではありません。

大きな世界が広がっていました。

 


陸が見えなくなると、リスクも、遭難の危険も、想像するだけでも怖くなるくらいにあります。決して安易にひとには勧めないし、自分だって怖い。

たとえ離れてみたとしても、一瞬岸が見えなくなってしまったと思っただけで、また岸が見えるところまで戻ってきてしまういうことも何度もあります。

それを恥と思うこともあれば、情けなく思うこともあるでしょう。

 

とはいえ、岸を離れる勇気。

この気概がひとを動かすのはなぜでしょう。

これを勇気というか、憧れというか、ロマンというか。

心のざわめきがとまらないでいるとき、岸のはるか向こうを想像しながら、小さなボートに乗る一歩を重ねていきたいと思います。

そしてそういうひとを応援し、羅針盤となれるよう応援していきたいと思っています。

「岸を離れる勇気がなければ、新しい大洋はみつからない」

 

このゴールデンウィークにかみしめ、考えるのもいい時間、幸せな時間の過ごし方。

そう思いませんか?

 

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人はこの3つがあれば生きていける。

「傾聴」を誤解していました。

「傾聴」のすごさを垣間みた、そういう学びの報告です、

 

 

わたしは財団法人メンタルケア協会の精神対話士、としての面もあります。
先日、研修会に行ってきました。


財団法人メンタルケア協会のHPはこちら。
http://www.mental-care.jp/


精神対話士とは、
「心に寄り添い「暖かな対話」で人を癒す『心の訪問ケア(アウトリーチ)』の専門職」です。


具体的には、協会を通じてさまざまな孤独、さみしさ、心の痛み等抱えているクライアント先へ訪問し、傾聴や対話を通して精神的な支援を行います。
個別訪問もあれば、学校、病院、ホスピス、企業などにもまいります。


さて、「傾聴」が注目を浴びていますよね。


というよりもコーチングやコンサルティング、そしていわゆる営業活動、人材育成、コミュニケーションその他、ビジネスの世界においても傾聴の重要性はますます高まる一方、と言っていいかもしれません。


精神対話士もその「傾聴」がメイン、と言ってもいいでしょう。


それにより「生きる希望」の支援を行う、とはずっと聞いていましたし、わたしなりにその実感もありました。


が、その理解は、まだまだ私は浅かったようです。

 

先日の研修会。
グループセッションのときに、あるベテラン精神対話士さんと同じグループになりました。
1期生で、阪神大震災のときから数え切れないくらいにさまざまなクライアントの支援をしているそうです。


ケーススタディをもとにディスカッションを行います。
そのとき、わたしは、もしかしてこれまで「傾聴」を誤解していたのではないかと思い知らされたのです。


ディスカッション中、そのベテラン精神対話士(彼女)が、同じグループの周りの方に耳を傾ける姿がなんとも言えず心を打ちました。


いや、耳を傾ける、ということであれば、またはうなづいたり反応したりということは、傾聴の基本です。


それは傾聴を技術として学んだ人ならば、もしかして誰でもできるのかもしれませんし、誰でもできながらでも効果があるからこそ、傾聴がますます重視されているのだと思います。


ところが、彼女の傾聴は、どうにも違う。
違うというよりも、傾聴が本当に目指しているところを見せてくれている、という感覚です。


普通のディスカッションの時間です。
とくに傾聴の訓練や、技術を見せてもらう時間ではありません。


だったにも関わらず、その傾聴の姿勢に感極まってしまい、他の精神対話士さんが涙を浮かべて「今日はこれだけのために来てよかった」とおっしゃっていました。
わたしも同じ気持ちでした。


心にスーッと寄り添って、わたしたち(わたし)の気持ちを引き出すともなく、自然とあふれ出てしまうものだったのです。

 

言葉にしきれずもどかしい。


傾聴ですので、状態としてはほとんど聴いているのですが、その姿勢やときおり発するひとつひとつの言葉や、何よりもその「目」が、傾聴とは「対話」なんだ、と思い知らされました。


そう「目」です。


見えないものをそっと優しく見ている、そんな目です。


探り当てるとも引き出すともなく、自然に「ああ、わたしを聴いてもらった」という感情があふれてくるのですから、もう驚きでした。


相手の言葉を聞くとは、いつでも自分との対話だそうです。
そして、相手のもっとも大切にしていることと対話すること。


彼女自身、最初はまったく右往左往。
だからこそずいぶんと勉強、学習して自分自身も成長しようとされてきたそうです。


彼女は、世間的には無名のひと。
こういう方がさまざまな方を支え続けられてきたのかと思うと、胸が熱くなります。


わたしはわたしの世界で、何ができるのだろう。
もっと成長しよう。


彼女の言葉、正確には彼女もどこかから聞いた言葉だそうですが、大切にしている言葉を教えてくれました。


人はたった3つだけあれば、生きていくことができる。

 

それは、

 

あたたかな言葉と、

優しい目と、

優しく触れられること。

 

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ソクラテスとは友達にならない

4月27日は哲学の日。

 

紀元前399年のこの日、ソクラテスが刑死した、と言われています。


約2400年前の話です。


ソクラテスの罪は、現代ならばちょっと考えられない。
もし現代で同じ罪状があれば、その国家は「???」と危ない認定されるでしょう。


罪状は、青年を惑わした、というものでした。


わたしは、あのー、実は、哲学専攻です。
ソクラテスおじさんのことは、もちろん、「哲学の祖」として学びました。


もっと言えば、高校時代の「倫理」の教科書に載っていました、ソクラテス。
「ただ生きるではなく、よく生きる」など。
妙にずっと引っかかっていて、大学でも哲学に入ってしまったと言っていいでしょうかね。

 

いまもなお考え続けているのですから、ソクラテスおじさん、いまだに青年を惑わし続けています(笑)


青年は今では思いもよらないほど国家の支柱でした。
はるかに人口もすくなく、青年はいまでは想像もできないくらい国の宝。
「民主主義の祖」というまさにそのアテネの時代ですから、「青年を惑わした」って、国家を揺るがすほどでした。

 


正直言って、もし現代にソクラテスがいたら、わたしは友達になっていないかも。


いまでこそ、崇め奉られ、尊敬されているソクラテスですが、ソクラテスがそのまんま現代にいたら、断言しますが、ほぼ99.9%のひとは、凹まされているはずです。
(わたしも、たぶん、凹まされてしまっています。)


なぜか。


わたしもこのブログを書いていて言うのもなんですが、要は、「わかったようなこと」をつらつらと述べているわけです。

 

 

たとえば、ですが・・・


人を愛する。そうだ、その通りだ。
現代で言えば、もう誰も言い訳も、逆らえもしない言葉です。


でもソクラテスは尋ねるでしょう。


「・・で、愛って何?」


はっきり言って、ムカツキます。
わたしもムカつきます。
屁理屈、とか、わけわからない人とか、ひとの気持ちをわからない人と言って遠ざけてしまいます。


でも、それがソクラテスだったのです。


ギリシャ時代でも現代に負けないほどの立派な回答を出す人はたくさんいました、
でも、そのひとたちは、立派なことは語りますが、真理を語っているわけではなかった。

そこの、「まるであなたは何もわかってなかったんですね」と思い知らされるように、ソクラテスから問答されるのです。

 


現代に置き換えてもおんなじです。

現代こそ、もしかして根は深い、かも。

科学的なデコレーションがされているから。(当時は当時の最新のものでもちろんデコレーションされていました。)

 


だから、ソクラテスは刑死させられたのです。

青年を惑わしたからでは、本当はありません。

 

当時の大人が答えられなかったから。

本当は分かったようなことをのきなみ分かっていなかった、と自覚させられたからです。

そんなひとたちの一部が、「恥をかかされた」「メンツをつぶされた」という(意外に)多くの人たちが、「ソクラテスは危険だ」と訴えたわけですね。

 

 

ソクラテスは当時の「いい大人」に何と呼ばれていたか。


「牛の尻のまわりでブンブン鳴る虻」


扱いされていたのです。


わたしたちの時代には、ソクラテスを刑死させた人の名前は残っていませんが、ソクラテスの名前は「世界三大聖人」と呼ばれるほどに残っています。


この稿で、だからソクラテスは偉いんだ、なんて語るつもりはありません。

 

しかしわたしたちは、いやわたしは「知っている」ことを畏れたいと思っています。
つまり、人の生き方の技術は確かに進歩している・・・かもしれないけれども、人が真理をしることについてはどこまでもまっさらですなおでありたいと。


もちろん、いま自分ができていないから言うんですけどね。


哲学の日、ソクラテス。


わたしはこんなに危険な言説が今の伝えられ続けていることが希望だと思っています;


「知らないって知っていますか?」
ソクラテスがもらった、当時のギリシャの神様からもらったお告げです。


さてさて、わたしたちが知っていることは、真実ですか?


うーん。


哲学の日。


ちょっとソクラテスの真正面から対話してみるのも、スリリングですよ。

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“気付き”が飛び込んでくるための条件

バスは山間を通っていました。

 

「気付かなかった・・・これがきらきらしているってことなんだ。」

と自覚したのは、ちょうどこれくらいの季節。


大学生の部活動遠征で長距離バスに乗ったときです。
よく覚えています。

 


そう、この新緑の季節ですね。



長距離バスでなんとなく外の風景を見るともなしに眺めていると、森の中を通っていきます。
入ってしばらくすると、きらっ、またひとつきらっと、森のはずなのに、かえって明るくなってきた感覚がしました。
バスの移動に合わせて木々の間から線のような光が差してきます。
また若葉自体からも薄い緑の光が透けて照っています。


「新緑って、こんなにきれいなんだ・・・」


はっきり気付いた瞬間です。


夏が進むにつれて、葉の表皮は硬質を増し、緑は深くなってきます。
その前にみせる刹那のとき、新緑が水分をたたえながら光に揺れています。


もちろんそれまでも20年ほど新緑の季節は過ごしてきたわけですが、はっきり自覚したのはそのバスの中でした。


いまあるものがめぐってくること、それがあたりまえすぎて、普段その存在をかえって忘れてしまっています。


わたしたちの身体、脳は周囲の情報をすべて受け取っているのではなく、選択的に受け取っています。

どんなに騒がしい渋谷の交差点でも、自分の名前は聞こえて呼ばれたほうを振り返りますよね。
逆にこれがなければわたしたちには渋谷の交差点のあの“騒音”がすべてそのまんまの量と種類とボリュームが耳に脳に直撃してしまい、おそらく1分も立っていることができないでしょう。
生存のための能力といえます。


あたりまえと思うことを普段忘れてしまうことも、これは身体がきちんと生存しようと働いている証拠です。思ってみればありがたいことです。


とはいえ、逆に言えば、わたしたちは無意識に、または普通の意識で過ごす限りはいつも情報がはいってくる自動的に選択されているとも言えます。


わたしの個人的なミッションのひとつに、人はどうすれば気付きやアイデアを得ることができるのかを探求する、ということがあります。


この自動的な情報選択を乗り越えて、気づきやアイデアをえるひとつの方法。
というより、気付きやアイデアを得るための前提のひとつ、といえばいいでしょうか。


それは


「空白」。


自分の中に、つねに空白をつくっておく、作るようにしておくということです。


よく、半分水がはいっているコップを見せて、
「半分しか入っていない」ととらえるか「半分も入っている」と捉えるかでマイナス思考ではなくプラス思考の大切さを教えることがあります。


これはたしかにそのとおり、でも、おしい!


「油も半分いれることができるなあ。」
「コップの形が美しい・・・」
「ガラスはなぜ透明に見えるんだろう? 透明なのになぜ水は見えるんだろう?」
「あたかも水がはいっている模様のコップもおもしろい!」
「水というのは器に合わせて形を変えるんだよな。」


・・・


もっといろんな発見や気付きがあるでしょう。


物事は、思いもよらないいろんな可能性やなぞに満ちている。
それが見えるのは、どんな気づきでも飛び込んでくるための空白のスペースが必要です。

 

たまたま、バスに揺られてボーっとしているところがわたしに空白を作ったのでしょう。
それ以来、この新緑の季節が来ると、立ち止まって木々に見とれてしまいます。

前向きか後ろ向きかに関係なく、どうにも脳みそや感情が詰まっている、どうにも余裕がなくなっている、どうにも息苦しい、そう感じていたらもしかして空白がなくなってきているのかも。


せっかくの季節です。
ほんの30分、1時間でも森や林や緑ある公園をボーっと歩いてみるだけでも、ぜいたくな時間になりますよ。

 

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進化の源泉を知る

今となっては、どうやって待ち合わせ場所に集合していたかな?
と思うくらいに待ち合わせのハードルが低くなりました。


「新宿の○○ビル前で、14時に待ち合わせね」


○○ビルのことを知らなくても、スマホの地図でたどり着くことができます。
14時に間に合う電車も検索ひとつ。
万一わからなければ電話すれば解決です。

 

学生のとき、まだスマホ検索なんてない時、夜遅くの連絡で急きょ翌日朝に飛行機で飛び立つことになりました。時間がわからないから始発に乗り込み、到着後待ち合わせするにも、待ち合わせ相手は携帯電話をもっていないため、なかなか会うことができません。「あれあれ、間違ったかな」なんてやきもきしたものです。


そんなに昔じゃないとは思うのですが、携帯電話がまだ普及していない時代、どうやって待ち合わせが正確に行われていたのか、もう思い出すのもむずしかしくなりました。


ひとは
「これは便利すぎる」「これは上質すぎる」
というものに出会うと、もうそれがないときに戻れなくなります。


とりわけ、生活のやり方を一変させるようなものに出会ったとき。


かつては冷蔵庫や洗濯機もそうだったのでしょう。
コンピューターもそうですね。


サービス分野でいえば、ディズニーランドもそうかもしれません。
「これがホスピタリティーだよ」とその質の高さのワクワク感に遭遇してしまうと、他の遊園地ではもう物足りなくなりますから、リピーターとして何度も通ってしまいます。

 

別にそれがなかったとしても人類は生きてきましたし、なければないで豊かに暮らせるものだとは思います。


しかしながらそれでも「これは・・・今までは全く違う」というものに出会うよろこびは人が希望をもつ源泉となり、より社会を過ごしやすいものしてきました。


技術でもサービスでも、考え方でもなんでも構いません。
社会制度もしれません。


いまは確かにそうだけれども、
いやいや、次元を変えるくらいのやり方は絶対あるよ、できるよ。


これまでは常識だと思われていたこと、「もっと違ういいことあるんじゃない??」
ワクワクしよう!


ひと進化の源泉、しかもそれが喜びをともなった源泉は、「生存本能」と同じくらいに「新しいことへの好奇心」だと言われています。


ひとが本能に従って進化していくならば、
「夢」や「希望」や「理想」や「きれいごと」など不確かな未来を切り開くワクワク感は、「生存本能」と同じくらいに切っては切り離せないものなのです。


人間だもの。
安心して、「夢」や「希望」や「理想」や「きれいごと」を大切にしましょう。


さあ、今日もひとつ、何か探してみましょ。

 

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もう、やだ。(って言えない。)

ああ、なんか違う、なんか苦しい。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 

でも嫌だなんていっちゃいけない。
なんとか頑張って頑張っていかなければならない。

 

嫌と言ってはいけなんだ・・・

 

 

嫌なことがあれば、なんとかそれを克服しようとまず考えます。

または嫌なことにはフタをしてみないようにしたり、嫌なことを「本当はいいことなんだ」と思いむようにしたり。
 
そして、
 
ニッチもサッチもいかなくなって・・・

わたしたちはやっぱり、好きなこともあればいやなこともあります。


事業においてもさまざまな計画、人間関係においても、
 
わたしはこんな商売はしたくない
在庫は抱えたくない
こんなひとはお客さまにしたくない
などなどなどなど・・・

 

数え上げればたくさん出てきます。

それを一挙に解決することはなかなか難しいけれども、道が見えてくるための、おすすめしたい方法があります。

 

 

それは、徹底的に嫌なことを書き出してみること。


もう、「わたし真っ黒」とおもうくらいに、徹底的に自分の中で嫌だ、やりたくない、ネガティブだと思うことを洗い出してみます。


やってみると面白いことにたいていの場合、「好きなこと」よりも「いやなこと」の方がたくさん出てきます。
 

はじめはとまどいもありますが、だれに教えなくてもかまいません。


遠慮なく書き出しているうちにとまらなくなったりします。

嫌なことを書いているつもりが、好きなことやっているんじゃないかと錯覚するくらいに止まりません。

(わたしもびっくりしました。とまらなくて途中から気持ちよくなってきたくらいです(笑))

 


いろいろな利点がありますが、ひとつあげると、


「ああ、わたしはこの方向に進みたいのだな」

 

とかえってはっきりわかることです。


嫌なことややりたくないことをたくさんあげると、かえってその反対のこと、つまり自分の理想やすなおな思いがくっきりするからだと思います。


わたしは思います。


嫌なことがあることがダメなんじゃない。
自分のおもい(方向性、理想、事業の姿、etc)にウソがあることが、問題の根本にあるのではないかと。


フタをしない、ごまかさない。
ただ、ちゃんとすなおに見つめてみる。


そうすると、自分の在りたい姿、事業、思いのあらましが見えてきます。


ある日こっそりやることをお勧めします(笑)

 

あ、最後に忘れずに。

嫌なことを書きまくって、自分をすなおに見つめてみたら、最後は、ぽいっとゴミ箱に捨てましょう。

 

いったん自分の中から捨てる。

 

そうしたら、また新しい出発、できるようになりますよ。

 

 

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「あー、やる気ない。でもやらなきゃ」

人間ですもの。
やる気がまったくおこらないときだってあります。


精神的なこともあるでしょうし、単純に疲れたり、寝不足だったりと体調の不調がやる気をそぐこともよくあります。


本音は何もしたくないのに、何か進みたいとは思っているとき。
または締め切りがあったりして何かしないといけないと思っているとき。

 

そんなときの一つの方法。
これは結構キク! という方法があるのでお試しあれ。


わたしは寝不足が大敵です。

 

「ああ、睡眠が足りない」

 

そんなときは、普段の半分以下の生産性になってしまいます。

短時間睡眠で大丈夫なひともいるようですが、わたしはもうそれにあこがれるのは捨てました。

寝ることはわたしにとってはとても大事なことです。


さてさて、
布団から出たくないときってありますよね。
寝不足のときもあれば、「寒いから」というときもあり、いろいろです。


そんなとき、気合を入れてガバっと起きる、という手もよく使いますが、

気合を入れる前によくやることがあります。


それは、
「布団から、ちょっとだけ足を出してみること」。


「かけ布団だけ、はがしてみる」でもいいし、「薄眼だけしてみる」でもいいです。


要は、ほんとにほんとにほんのちょっとだけ、起きるに向けての行動をしてみる、ということです。


足をちょっとだけ出してみる。

ただそれだけ。

 

寒いです。


少し経つと、「そろそろ起きるか」と「起きてもいいモード」に気持ちがなってきます。
そのモードになったら「よし、気合入れて起きよう!」とガバっと起きるわけです。


「起きてもモードになるために、何かちょっとだけやる」

「起きてもいいモード」になる

「起きるモード」になり、

「起きる!」


と、こんなステップです。


ベイビー(赤ちゃん)ステップよりも小さい、微分(とにかく小さいよという意味)ステップですね。


何かをしないといけないけど、やる気が起きないとき、とにかくとにかく小さなことをまずやってみるのはおススメです。


じゃあ、パソコンで資料をつくらないといけないけど、やる気が起きないときは?

 

そう!

 

パソコンを起ち上げる、ですね。

 

その次は?


そう、とりあえず、資料を作成するためのエクセルかワードかパワーポイントか何かを起ち上げる、ですね。


そして、最初の一文字、一行だけ書く。


そこまでで「よくやった、わたし!」、とほめます。


一行書いたら、次は、あと一行だけ。
そうしたら、今日は、一段落だけ頑張ろう、と決めて頑張ります。
そうすると不思議や不思議、一段落行くと、1ページ行きたくなります。
そうなると、とりあえず一かたまり分はなんとか仕上げたくなります。


運動会の大玉ころがし競争のように、一番エネルギーがいるのは、一番最初です。
一度転がりだせば、勢いがついて、あれよあれよと転がっていきますよね。


一番最初のエネルギーを出せないというのが、ようは「やる気がおこらない」です。


だったらその一番最初のエネルギーをいかに出しやすくするか。
ここが工夫のしどころですね。


そこで、本当に小さな、小さな、微分の一歩だけやってみると気が付いたら自然と勢いがついて、日常のエネルギーまで出せるようになってくるというわけです。


ほんの小さな小さな一歩でも、それこそ人が見たら何もやってないように思えるほどの小さな一歩でも、その日一日がガラリと変わるのですから、やってみる価値はあります。


これからとにかくやってみる微分の一歩、何ですか?


わたしは・・・そうですね。
このブログを書いたら、ちょっとだけ骨のある本を読みたいので、そう、とりあえず「本を本棚から取り出す」だけやってみようかな。


そうして「出だしの一段落だけ読んでみる」。
よし、ここまでやろう!

 

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歴史にたちあえるよろこび、に気付く。

快挙が生まれました。


囲碁の井山裕太6冠が7冠獲得!
つまり囲碁界にある全部で7つのタイトルをすべて独占したのです。
歴史が変わるときに立ち会いました。

 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160420-00000069-dal-ent

(Yahoo!記事はこちら。)


おめでとうございます!


タイトルを取る、というのは、タイトルの種類ごとに5番、または7番勝負を戦って先に3勝ないし4勝しなければいけません。
何がすごいってタイトル戦とはその時点で最強の2人が戦うわけです。


最強決定戦に1年間で7回勝ち抜かなければタイトルは取れない。
瞬間的にいくら強くてもダメなわけで、一年間続く長い長い最強決定戦の連続に勝ち抜く総合力、つまり知力だけでなく体力も精神力も必要なわけです。


毎日がテニスでいえばウィンブルドンや全英オープンの決勝戦ばかりが年7回続くような、野球でいえば、日本シリーズが、年一回だけでなく年7回ある、という感じですね。


棋士というものは一度でもタイトルを取れたら一流と言われ、ほとんどの棋士はタイトル挑戦すらできません。


井山7冠のすごさは、、、実は将棋ファンこそ分かる、といえるかもしれません。


なぜなら、そう将棋界にはあのレジェンド、羽生善治さんがいるからです。


羽生善治さんも20年前、1996年25歳のときにやはり全タイトル7冠制覇をしています。
わたしは囲碁よりも将棋ファンですが、そのときの将棋界のみならず、社会現象になったことを今でもありありと思い出します。


というのも、羽生さんが7冠を獲ったときは、わたしは高校生。
7冠獲得は2月14日。


2月14日は高校生ならドキドキのバレンタインデーですが、それよりもその日は7冠への興奮でたまらない(恋なんて、7冠に比べれば!)。
翌朝には「羽生7冠」のスポーツ新聞を数誌買って、「7冠取ったよ!」、学校で周りに知らせながら読ませていた覚えがあります。

 

ニュースのトップはどこを見ても羽生さんが7冠取った瞬間の対局場。
CMには出るわ、将棋をすると頭良くなる、なんて将棋ブームが来るわ、将棋のイメージが一気に変わった瞬間でした。


そして・・・羽生さんは、今でも将棋界最強、将棋始まって以来、空前絶後の棋士と呼ばれ続けています。


将棋界ではよく言い合います。
これまで人類の歴史では、その業界でその人しかいないという偉人や歴史を創っている人がいるが、まさに羽生さんがそれ。
わたしたちは、羽生さんが将棋界にいるこの現代に生まれて幸せだ、なんて話しています。後世のひとたちは、この時代をかならずうらやましがるだろう、と。


そうですね、
たとえば戦国時代好きならば、ちょうど織田信長や豊臣秀吉が天下統一するところを間近に見ているとか、幕末ならば坂本竜馬や西郷隆盛が世の中を変える現場を目撃しているとか、それくらいのレベルです。


それくらいのレベルで、将棋界で羽生さんが7冠を達成しその後も最強でい続けている時代を味わっているわけです。


さらによく話し合います。


「羽生さんファンでよかった」って。


なぜなら、羽生さん以外のファンだと悔しさを味わうことが多いけど、羽生さんファンならば将棋の対局があるたびに勝利やファンタジックな内容に喜び合えるから。幸せの数をだれよりもたくさん味わえるから、なんて。


もちろん、羽生さん1人で将棋界を創ったわけではなく、たくさんの先人やたくさんのライバルがいてこその羽生さんです。強さといっても紙一重。もう1ミリメートル間違うと、自分が斬られてしまう、それくらいの差を高めあい続けています。そのひとりひとりに物語があり、笑いも涙も怒りも悲しみもあるこのライバルたちの魅力にずっと魅かれ続けて、子ども時代からいままでずっと将棋ファンでい続けています。


何十年も毎回ハラハラドキドキしながらファンでいられるなんて、将棋に出会えて本当によかった、と思います。一生ものに出会える幸せをかみ締めています。


と、将棋ばかりの話をしてきましたが、この羽生さんや将棋への賛辞はそのまま、井山7冠や囲碁への賛辞となります。

囲碁ファンは、うれしくてたまらないだろうなあ。
いやいや井山さんのライバルのファンは、悔しくて涙をのんでいるかなあ。


月並みですが、仕事でも趣味でも、何かに打ち込めるというのは幸せなことだとつくづく感じます。


「人生は冥土までの暇つぶし」


といった人もいますし、おそらくそうなのでしょう。


そうならばその暇をもっと楽しく、もっと楽しみながら、出会っていくさまざまなことに感じ、味わいながら最高の暇をつぶしていきたい、そう感じさせてくれる井山7冠の快挙でした。


それにしても、本当におめでとうございます!

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「踏み出せない?」2つ問いかけよう。

「どうにも踏み出せない。」


さまざまな起業家や経営者やそれを目指す人、夢ある社員などと接しているとそういう悩みを抱えていたり、もやっと思っていたりすることに出会うことが多い、そう思います。


わたし自身も同じようにどうにも身動きのとれない感覚があるときがあります。


さまざまなアドバイスややり方はあるのでしょうが、まず最初に大きく二つ、踏み出せない理由があるように感じています。
理由というより、同じ「踏み出せない」と言っても、その意味には二つあるという方がいいかもしれません。


Aさん。
「今の仕事のやり方ではダメだから変えたいと思うんだけど、、、」


相談された人。
「そのやり方はたしかにダメだと思う。この方法がいいと思うよ」

Aさん。
「そっかー。確かによさそうだね。うーん、でもなあ」


よく見かけるシチュエーションかな、と思います。


Aさんも、頭の中では理解しています。
しかしながら、どうにもそれをやろうという気持ちになれない、そんな状態ですね。


Aさんの気持ちの中にはたくさんのことが渦巻いていると思います


「その方法、手間やお金がかかるかもしれないなあ」
「その方法に変えると、影響が大きそうだなあ」
「それをやるには思い切った決断がいるなあ」


「良い」と思っているけれども、それをおこなう上でのさまざまな課題やハードルが見えてとまどっている状態があります。

お金とか時間とか、モノとかというハードルもあれば、不安とか恐れという心理的なハードルもあるでしょう。


そう、一つ目は

「やりたいけれども、やれない」

そんな理由ですね。

もしそうだとしたら、それをひとつひとつ取り除いたり、越えたりしていけばいつかはゴールにたどり着くことができます。


相談されたり、または自分自身がそうであったら、ひとつひとつ丁寧にそのハードルを棚卸をしていったりして、「ハードルの存在」を見つけていくのでしょう。


ところがもう一つの理由。
これがそうだとしたら、「問い」の次元を変えることになります。


それは


「そもそも、やりたくない」。


Aさんが現在やっている仕事かもしれませんしアドバイスされた方法かもしれませんが、そもそもそれをやりたくない、というとき、その時は、次元が異なってきます。


「在り方」や「生き方」の方向性の問題になってくるからです。


夢やビジョンと言ってもいいでしょうし、ポリシーといっていいかもしれません。


内なる声にすなおに耳を傾けてみることが大切です。


すなおに耳を傾けてみる。

苦しいときは苦しい。
楽しい時はたのしい。
どちらも自分です。


そのうえでどうしてもそれをやりたくない、と思うときそれは「在り方」や「生き方」の方向性を考えるチャンスだと思っています。


正しいかどうかなんて、関係ない。
もしかして、超不効率な道を選んでしまうかもしれない。


でも、その内なる声にすなおになって、
「やりたくないことはやりたくない」だからこそ「この道を選びたい」となったとき、人は勝手に、最適な方法を見つけていく、そう感じています。

 

踏み出せないとき、


「やりたいけれど、やれない」
「そもそも、やりたくない」


どちらの理由も、大切です。
どちらかによって、取るべき手段も変わってきます。


相談者は、そして自分は、いまどちらの理由で踏み出せないのだろう?


わたしも日々、自問自答しながら、すこしでもその人自身がうれしい方向になるようになれるよう、成長していきたい、そう思っています。

 

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日本一のうどんへのラプソディ

予備校時代、北九州の小倉の寮にいました。

門限が夕方17時というなんとも青春時代にはキビシイ寮で、予備校を出て夕方門限に間に合うようにダッシュで寮に帰るという毎日でした。

 

ほとんど街をあるく暇もない生活。

その中に、土曜日だけは午後から夕方門限までの約5時間ほどは自由時間がありました。

そんな土曜日のたのしみ。

 

それは「うどん」。

 

寮の目の前の、小さなうどん屋。
カウンターだけ6、7席、といったところでしょうか。


店主ひとりで、ひとりひとりに「たくさん食べてね」と声かけながらうどんを作っていたことを思い出します。


昼前になるといつも行列ができていました。

 

「ごぼう天ぷらうどん」通称「ごぼ天うどん」の「ごぼ天」がとにかくうまい。

ふつうの2倍もある直径のごぼうがサックサクの衣で揚げられていて、一口噛むとごぼうの甘みがジュワーと口いっぱいに広がって夢見心地。

出汁を吸ったごぼ天がたまらない。

要望があって「ごぼ天」だけ別売りもしていたくらい。

 

そしてうどん自体のボリュームがすごい。
腹をすかせた予備校生には、生姜の利いた出汁にたっぷりの麺とごぼ天はそれはそれは一週間に一回のごちそうでした。

 

大学で小倉を離れてからも、わざわざ食べに行きました。
就職して大阪に行ってからも、わざわざ小倉に食べに行きました。

 

わたしが久しぶりに行ったときには、駐車場もでき、テーブル席も何席もあり、アルバイトさんも何人もいて、地域の名店としてお店が大きくなっていました。

 

その後もわたしもおいしいうどんは食べてきたように思いますが、わたしの中では今でもNO.1うどん屋はここです。

 

わたしはここを思い出すにつけ、ビジネス、というよりも商売の王道を感じます。

 

腹をすかせた予備校生。
その子たちが「食べきれんって」と、ときにギブアップするほどのボリューム。
しかもその麺も出汁も「ごぼ天」もうまい。
「肉うどん」というものもありましたが、麺を隠すほどにどんぶりが肉で覆われていて、麺にたどり着くまでに腹いっぱいになるというしろものでした。

 

たまたまでなく、その寮の前に店をつくったのは店主の考えだと思います。
やさしい職人肌の店主でしたが、腹をすかせたひとにどうやっておいしいものを腹いっぱい食べてもらうかを考えていたように思います。

 

あえて言えば、見込み客、つまり幸せになってほしい人が、おもいっきり幸せになることをずっと考えて提供していた、とまあ、こういうわけです。

 

当時、寮生は必死であせったり気張ったりしてすごしていました。

受験前になればなおさら。

その気持ちを知ってか知らずかはわかりませんが、ときどき言ってくれる

 

「腹いっぱいたべてね」

 

この一言がうれしく、たまにごぼ天や肉を少しおまけしてくれる、その一杯をもとめて並んでいました。

 

難しいことを言わずとも、「感動価値」がここにありました。

幸せにしたいひとにもっとも幸せなになることを提供する。

 

感動価値を体験すると、それはただ「よい価値を受け取った」ではなく、「人生の思い出」になります。


あの人生の一コマに、あの感動。


願わくば、そのような人生の一コマを担うような価値を創り、提供していきたいものです。

 

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“Less is more” makes Big Landscape.

日本のどこかの都市に住んでいれば、今あなたが働いている建物もそうかもしれませんし、いまあなたが座っているカフェの入っている建物もそうかもしれません。


いまや普通すぎて気にも留めないのですが、この風景も「作られたもの」、ある建築家のコンセプトでできたもの、とも言えます。


つまり、この、立方体の箱型のそれぞれの窓は大きなガラスが枠取っているビルのカタチ。
東京でも、大阪でも、名古屋でも、ビルと言えば普通にあるこのカタチ。


ミース・ファンデル・ローエという、世界三大建築家の一人が提唱したものです。


この近代というもの、都市が発展していくことを誰よりも見越して、多くの人が効率よく働け、かつ都市になじむ風景としての建物を提唱して作ってきました。


今では多かれ少なかれミース・ファンデル・ローエの風景が「普通」になっています。


人がいっぱいのところはあまり得意ではないにせよ、こういう人の考えやそのカタチになった風景を知り、見るとつい興奮して楽しくなってしまうのはわたしの習性。


さて。

そのミース・ファンデル・ローエの言葉と言えば


Less is more
より少ないほどより豊か(良いもの)である。


わたしたちは何かを構想したり、計画したりするとき、またな何かを伝えたいとき、やりたいことや加えてみたいことがどんどんどんどん増えていって、いつの間にか、何をしたかったのかわからなくなることがよくあります。


伝えられる方もチンプンカンプンですが、伝える本人も「あれ、なんだっけ?」となりがちです。


ふだんの活動、日常生活でも、仕事でも、人間関係でも。

まいにち活動していくとひとつひとつはもしかしてささいなことかもしれませんが、まるでゴミファイルがパソコンにたまっていつのまにかパソコンの動きが遅くなってしまうように、日々の活動が、淀んだり、忙しかったり気を使ってばかりいて何をやっているのかわからなくなる時もよくあります。


そんなときは


Less is more


少なくしましょう。

 

捨てるものは定期的に捨ててみる。
自分の大切にしている原則だけをやってみる。(間違ってたらやり直せばいいだけですよ。)

 


より大切なことだけを見つける、ということを大切にしてみると、たいていのことは自分にとって大切ではなかったんだ、と気づくことができます。


Less is more


大切なものがわかり大切なものに集中できるとき、それ以外のこともできる、ということが実に贅沢で豊かなことだったんだと気付くこともできます。

 

ミース・ファンデル・ローエ、現代の風景を構想した人。

 

その根底にあるのが、

 

「Less is more
より少ないことはより豊かなことだ。」


果たしてわたしたちの、生き方、在り方までLess is moreになっているのでしょうか?

 

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あなたは、何を賭けますか?

「わたしは賭け将棋はしません。将棋が濁りますから。」

と羽生善治さんが、ずいぶん昔に記事で言ってた記憶があります。

何かを目指し極めるためのまったき真実の言葉だと思っています。
わたしの印象に強く残っています。

昭和のおわりくらいまで、「真剣師」というお金を賭けて将棋を指して、生計を立てている人たちがいました。

ホンモノの世界になると、一対局あたり数百万とか数千万とか。

豪快でスリルがあって、自分の土俵にもちこめばときにはプロにも勝つような、そんな方々です。最近では「ハチワンダイバー」という漫画でも出ていましたね。

実はわたしも、大阪の通天閣下の将棋センターで、「最後の真剣師」と将棋を指したことがあります。
もっともそのときは引退されていて、枯れたいいおじいちゃんになっていました。
指導将棋でしたが「これがあの伝説のひとかー」とドラマの世界に入り込んだようで、感激しきりでした。

 

というか、実際に、この真剣師、昔の話ですがNHK朝ドラ「ふたりっこ」に出ていた「銀じい」のモデルなんですよ。その時はまだご存命でした。


その賭け将棋というもの、当然、お金をかけます。
法的には違法ですが、もしかして今でも1000円、2000円、1万円くらいなら個人的に賭け将棋を楽しんでいる人もいるかもしれません。(いないかもしれません(笑))

 

羽生さんはやらないとのこと。

違法だからやらない、のではありません。
将棋が濁るからやらない、と言っています。

賭けに勝つための将棋、お金を巻き上げるための将棋になってしまい、将棋に対する純粋な気持ちや、将棋そのものの可能性の探求ができなくなってしまうからです。
究極を目指しきることができない。

賭け将棋師は魅力的なひとが多いし、ドラマティックで、興奮もします。
さまざまなことを学ぶことができます。
もしかしてそれを人間力と言ったりするひともいるでしょう。

しかしわたしも、その道は選ばない、と思っています。
選ぶならば、純粋な探求の道を選びたい。

(たんなる気晴らしならば別ですが、好きなもの目指したいものならば。)

ビジネスでも、芸術でもスポーツでも、人付き合いでもいいでしょう。
とりわけビジネスのほうが分かりやすいかもしれません。

このお客さまや社員や目の前のひとをよろこばせたい。
世の中の役に立つ最高の商品やサービスをつくりたい。
自分の可能性にも挑戦してみたい。

もちろんお金のやりとりは介在しますし大好きですし綿密に計算もします。
できたら大富豪にもなってみたい。
ですがそれは「手段」であって「目的」ではない。

自分が目指す在り方とか、生き方とか社会の姿とか、価値とか、モデルとか、そういったものを目指してみたい。

「そうだったのか、、、やっと、わかった!」

何ごとかの「真実」がわかって死んでいけたら最高です。

「あのとき自分の目指す目的を、目的としてちゃんと生きておけばよかった。」

なんて言いたくない。
そう思っています。

あなたは・・・どの道を選ぶのでしょうか?

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90歳から英語を習い始めるひとの言葉。

90歳から英語を習いはじめたお坊さんの話があります。
 
さすがにお弟子さんもそのお坊さんの行動が不思議に思ったようです。
 
「えっと・・・お師匠。この年から英語を初めるんですか・・・
(意味ないんじゃ・・・)」
 
お坊さんは答えました。
 


「今からやっておけば、生まれ変わったときにもっとできるようになるからね。」

 

 

わたしたちはともすると、やりたいこと、計画、最高の事業、を考えてもすぐに「できない」と言います。

 

 

できない場合に批判、非難もありますからなおさらです。

 

 

ところが、ふと気づきました。

 

なんで人は、「すぐに」できなければダメだと考えるんだろう。

 

何十年後にできるかもしれないし、自分じゃなくても誰かができるかもしれない。
もしかして、お坊さんみたいに、生まれ変わったらできるかもしれない。

 

 

そのように考えると、なんでも思いっきり描くことが自由にできることが分かりました。

 

どんな時期に、どんなきっかけでできるかは今はわからない。
でも描くことは自由です。

 

不思議なことに人間が思い描いたことは、いつの間にかどこかで実現しています。
誰かが出発点になっています。


その誰かの発信が、誰かの知恵や技術を集めたり、誰かに引き継がれたりして、
いつのまにか実現しています。

 

100年前の単なる想像も、今は実現していることがたくさんあります。

 

携帯電話も、インターネットも、ロケットも、新幹線も、etc・・・もしかしてこのように自由に発言できる社会も、昔はありませんでした。

 

思いっきり自由に描く、いつできるかわからなくても、とにかく描く。

そして、今できる第一歩。

 

これが、とにかくコツ。

 

まず描くこと。
描いたことはずっとずっと生きていくのです。

 

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大丈夫、決まってないよ。

ここ10年で評価が一変した食物。


って思いつきますか?


それは「コーヒー」だと言われています。


コーヒーは10年前までは、基本的には、体にはよろしくない飲み物だ、という位置づけ。
カフェインが中毒性を帯び、胃が荒れ、飲みすぎるとガンを誘発するといわれていました。


そういえばそんなこと聞いたことありませんか?
わたしは記憶にあるなあ。


ところが、ところが。
今やコーヒーは体に良い飲み物の代表格のようになっています。

この10年間の研究成果がしめすものは、体にいいことばかり。

 

たとえば。。

 

・ポリフェノールが老化をおさえる
・肝機能を改善する
・副交感神経優位にでリラックス効果
・脂肪燃焼をたすける
・肝臓がんを抑制する

 

などなど・・・

もっとありそうです。

(参照)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/15/111700008/040100041/?rt=nocnt

 


大人になって、とくに会社員で外回りをするようになって以来今まで、よく飲むようになったわたしとしては、もう「コーヒーは体にいい」という記事を見るだけでヨイショしたくなってまいります。


わたしはこのコーヒーの話を聞いてうれしくなりました。
コーヒーが好きだったからひいきされたようでうれしい。
という理由はもちろんですが、もうひとつの方が大切です。


それは


「ああ、仮説だったんだ」


という喜びです。


99.9%は仮説、という竹内薫さんの本がありますが「コーヒーが体に悪い」は仮説だったのですね。


いやいや、もしかして「コーヒーは体によい」も仮説。
また10年後にひっくり返っているのかも。


それでも喜びなのです。


決まったように思えることも、まだまだ変わる余地も検証の余地もあるということ。
つまり、可能性いっぱいということですから。

 


仮説だから調べよう、本当のところどうなんだろうという好奇心と探求心がわいてきます。
仮説だから、もっと他の視点があるのでは? と可能性とアイデアがわいてきます。


いま

 

「これこれはこうすべきである。それが常識だからである」
「これこれはこう考えるべきである。そう言われてきているからである」
「これはあなたに合わない。あなたらしくないからである。」

 

などなど、もし息苦しさを感じているようなことがあれば、「これは仮説だ」と思い直し、ちょっと研究してみるか、くらいの気持ちであれこれ試してみると、さまざまなことがとたんに面白くなってきます。


言われていた通りならば、なるほど! と納得できますし、
そうでなかったら、よし、新しい道を見つけた!発見で心躍ります。


最後に、わたしはお酒が好きですが、お酒の立場も今後どうなるのやら(笑)

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坂本竜馬“が”心酔し、福沢諭吉が激怒したひとの話。

幕末には坂本竜馬というとても魅力のある人がいましたが、わたしはそれと同じくらい、もしかしてそれ以上に魅力を感じる人がいます。

それはお師匠さんである「勝海舟」。

歴史ファンなら、幕末も大詰め江戸城無血開城、など日本のキーマンだったことを知っているでしょう。
当時のひとも驚くほどに洞察力があり、おおげさではなく日本が外国の植民地になる危機を救ったともいえるひとです。

74
歳まで長生きしました。
新しい政府でも栄誉職についたり、自分のドラマティックな場面を面白おかしく自慢したり、さまざまな時事評論したりと、とても敬意をもたれる一方、当時でも嫌いな人は嫌いだったようです。

「なんだ、あのやろう。幕府が倒れたとおもったらすぐに新政府の職につきやがって。」

裏切り者だと筋がないだの、いろいろと批判やねたみもあったようですね。

代表格のひとりが、あの、1万円札の、福沢諭吉。
福沢諭吉は幕府の家臣です。
勝海舟といっしょに当時では大冒険、幕末に「咸臨丸」という舟でアメリカまで行った同僚でした。

彼は幕末後は「学問のすすめ」や慶応義塾を作るなど、ひとりひとりの自立を促す、あたらしい時代の教育や啓蒙活動を行なっていました。

そんな彼は勝海舟に怒りを感じ、ある「公開質問」を送ったことがあります。

いわく

「痩我慢(やせがまん)の説」。

要は

「幕府が倒れて新政府になって、この世の中から武士らしい精神がなくなった。君たちが武士の一分をまもってやせ我慢しなかったからだ。」

(これ原文もおもしろいので、青空文庫でぜひ読んでくださいね。)

とまあこんな感じです。


激しく言えば、こんな感じでしょうか。

「武士の心を返せ、この裏切り者が!」



痛烈ですよね。。。。


こんなことを元同僚や仲間から言われたら、わたしなら凹んでしまうか、さまざまに理論武装して言い訳してしまいます。

ところが勝海舟。
返答はたったこれだけでした。

「行蔵(こうぞう)は我に存す 毀誉(きよ)は他人の主張」

わたしの行ないはわたしのこと。
誉めるもけなすも、それは他人が言っていること。
わたしの問題ではない。


それ以上福沢諭吉は何もいえませんでした。
むしろ、勝海舟のその当時の覚悟を読み取ったのでしょう。


ビジョンや夢を描き、それに向かおうとするとき、さまざまな声が聞こえてきます。
なかには批判もあれば、誹謗中傷もあるでしょう。

それをいきなり気にしなくなるということはなかなか難しいと思います。
だから仲間や応援者とともに進んでいきます。

そのうえで、ときに勝海舟の言葉を思い出してみると、

「わたしのおこないは『我に存す』」

だから、やっていこう!

「なんやかんや言われても『毀誉は他人の主張』」

だから、そんなの関係ない!

で、ビジョンや夢へ向かうエネルギーがまた沸いてきます。


われにそんす、われにそんす。。。
たにんのしゅちょう、たにんのしゅちょう。。。


呪文のようにどうぞ。

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今の社会的ニーズNO1はこれ!

何年も、言われたとおりに続けていることがあります。

 

ちょっと恥ずかしいくらいに自覚していますが、今でも耳にのこっていることを言われたからです。

 

こういわれたら自然に続けたくなるんだ。

こういうポイントを事業に取り入れれば、
お客様・ファンはどんどん育ってくれるんだと感動すらおぼえています。

 

何年も続けていること、それは
 
「歯を磨くこと。」

 

あたりまえ、とおっしゃるなかれ。
 歯科衛生士さんに言われたとおーりに磨き続けているのです。

 

早ければ半年、まあ1年単位に一回は歯石を取りにいっています。
もう13,4年以上も前ですが、当時仕事内容が変わることで、久しぶりに虫歯チェックをしておこうと思ったのがきっかけです。
 

そこで言われたのは

 

「よく磨けていますね~」。

 

おお、よく磨けているのか、わたしは。


と、うれしくなったその次に、

 

「さらにこう磨けば、同じ年齢ではめったにないくらい、ずっと健康で若々しくなりますよ」
 
わたしにとって目からうろこでした。

なるほどー、ここには歯ブラシが届かないから、こう磨けばいい。

そんなこんな、専門家から見た歯磨きの仕方を、教えてくれました。

 

その磨き方は、いまでもずっと続けています。

 

単に磨き方だけを教わったのならば、途中から面倒くさくなったかもしれません。

 

でもその歯科衛生士さんは、違いました。

「同じ年齢ではめったにないくらい、ずっと健康で若々しくなりますよ」

わたしがひそかにこうなれたらいいなと思っていた「理想のお口と理想の姿」へなれる可能性をみせてくれたのです。
 
もっと簡単に言えば、
 
「かっこいいわたし」
 
になれることを教えてくれたわけです。

はじめは、単に虫歯になりたくない、なったら仕事で困る、というようなわかりやすいニーズでたまたま出かけました。
 
しかし出てきた後は、「かっこいいわたしになろう」と思って出てきてたわけです。

 

おだてられてのぼせたといわれたらそのとおりですが、、、
が、もうすこし深い意味があると思っています。
 

i-phoneを使うと、ネットや電話ができます。
それ以上に、「スタイリッシュでおしゃれなひと」になれます。
 

スーパーの安売りチラシを活用すると、経費を削減できます。
それ以上に「かしこく判断できるひと」になれます。
 

むずかしくいえば、基本的欲求だけではいまの社会ではなかなかキビシイ。
さらに「もう一つ上の欲求」をひとは求めています。
 

かんたんにいえば「かっこいいわたし」になりたい。
 

あなたの商品やサービスを利用するひとは、それを利用すると、どういう「最高のわたし」になれるのでしょう?

 

 

なりたいわたしに、なれるようにしてあげること。

 

今の社会のニーズNO1かもしれません。 
 

 

わたしはまたせっせと、

教えられたとおりに歯を磨いていきます。
 

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ファーストクラスに乗る人が読む意外な本

「戦略や戦術をまなべる教科書」

といえば!

 

そう、将棋です。
 
むかしからリーダーや経営者がまなんだり楽しんだりしてきました。

 

知ってました?

 

JALか何かの元CAが「ファーストクラスに乗る人が機内でよく読んでいる本」みたなことを書いた本か記事がありましたが、歴史ものとか伝記ものの外に、なんと将棋の本が多いらしいです。

 

「先を読む、ってところがいいのでしょう」

なんてことを元CAは記事で述べていました。

 

わたしも将棋好き。

どれだけ強いかと言えば・・・ごにょごにょ・・・ですが。
 
最近気づきましたが、本当に、将棋は戦略や戦術の教科書と言えます。

その活かし方があることに気付きました。
 
わたしは小学校、中学校から将棋の魅力にはまってきたひとりです。
最近でも、社会人の大会に出て勝ったり負けたりしているのですが、ここ数年は、実力のわりにけっこう勝率がよかった。

 

 

それはあるひとつのことに気付いたからでした。

 


それは、、、
 

「危ないと思ってもなかなか負けない。勝ってると思ってもなかなか勝ちきれない。」
 

 

うわ、負ける、もうだめかも、やる気なくすなあ。。。
と思う場面はしょっちゅうあります。

 

ところが、よくよく読んでみると、意外にチャンスいっぱい、耐え方いっぱいで、まだまだがんばれます。そんな感じで楽観的に希望を捨てずにやってみると、本当にひっくり返すことが多いのです。
 
 
逆に、
これは勝ちでしょ、楽だったなあ、ビールがおいしいだろう、とよそ見していると、気付かぬうちに怪しくなって、いつのまにか負けていることもあります。

勝ち切るって難しい、油断してはいけない。

もう悔しくてたまらないので、反省します。。


 
じつを申すと、どちらのケースもわたしが勘違いしていただけ。


本当のところは

 

「まだまだどちらに転んでもおかしくない、いい勝負」

 

がずっと続いていたということです。

 

わたしたちは、なんとなく悪く感じてくると、なにもかもが悪く感じられてきます。
なんとなく良い感じになると、とたんに甘くなってしまいます。
 
 
でももうすこし高い視点で見ると、

 

「まだまだ、どっちにもなれる」

 

という状態がほとんどなのでです。

 

つらくても、絶望するなんてこと、ない。

楽過ぎても、甘々すぎる人生、なんてこと、ない

 

 

どちらにあってもよし、もうすこし、ちゃんと考えてみようって。
 
 
もし、いま、「悪い」、「良い」どちらにしても感じているならば、ここでぐっと腰を落ち着けてみると、悪いや良いを越えた、「最高」への分かれ目です。
 

もし、悪いと感じられていたら、良すぎるなと感じてたら、ちょっとだけちゃんと考えてみると、よし腰を落ち着けてやろうと思えるかなと思います。

 

今のあなたはどうですか?
 

ちなみに、わたしは、悪い、良い、どちらの場合でも、こんなときこそ、と腰をおちつけて読むことができるようになりました。
 
将棋の話ですが。

気持ちが乗っているときに限り、ですが(笑)
 
ただし、何十年かかって、ようやくです。

修行の道は厳しい。。。将棋ももっとつよくなりたいです・・・

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だまされる、なんて、ない。

「信じてたのに、だまされた」という場面を身近でもドラマでも聞くとき、もう800年くらいまえのひと、親鸞(しんらん)というお坊さんを思い出します。

そのお師匠さんに法然(ほうねん)というお坊さんもいました。
大変な人格者だったそうです。

いまではふたりとも日本史の教科書にはかならずのっています。

以下は宗派のお話ではなく、ひととひととの間のお話。

弟子の親鸞は、とても法然を尊敬していました。
もうそれはそれは人生をささげるくらい。

その様子をみた親鸞の弟子が、親鸞に尋ねます。

「あのー、法然さんが間違ってたらどうするんですか??」

親鸞は答えます。

「法然さんが好きで信じてる。法然さんが良いっていうから、法然さんが信じてきたものも信じてる。」

そして


「だから、法然さんを信じて地獄に行ってもいいよー。だまされるって思うことなんてありえない。」

超ニュアンスだけの意訳です。


ほんとにほんと、信じきったら、だまされるっていう考えはなくなるのかもしれませんね。

たとえ地獄に落ちるほどの状態でも、それでも信じるのが、信じるってこと。


親鸞はそのように言うわけです。


非常に厳しいことを言っている、と思います。
一歩間違えば、とても危険なことを言っているとも。


しかしながら、それが究極的に人を信じるということであり、そういう人がたったひとりでも周りにいたら、信じられたひとはどこまで勇気になるのだろうと思います。


師匠と弟子、親と子、夫婦や彼氏彼女、社長と社員、リーダーとメンバー、夢を追う人と支援者などなど、「信じる」ことで成り立ち、深まり一体となる関係がいろいろあります。


わたしもいくつかいわゆる「究極の信じる」でありたい関係があります。
またこれから出会う方々でもそういう自分である関係がいくつもほしいとも思っています。
それが本当に自分にできるのかどうか、これはわたしの一生の課題でもあるでしょう。


単純に「信じてるよ(でもだまさないでね)」と言うと、
相手に期待するような言葉になってしまいますが、
もし「究極の信じる」を少しでも意識したとき、それは自分の課題になります。


もちろん、わたしもまだまだ。
だまされるのは嫌だー!

でも少しでも究極を目指して生きていきたい、そう思う800年前の話でした。

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使われるとうれしいマジックを見つけました。

マジックがいきなり4つできるようになりましたが、奥が深い。

マジックを通して、人を喜ばせる奥義、も教えてもらったような気持ちです。


つい先日、オーロラビジネススタイル研究所代表の野口雅代“師匠”のオーロラ・マジック伝授会で、マジックを伝授してもらいました。


あの横綱白鳳の前でマジックを行なって気に入られたという野口さんのマジックは楽しい。マジックの中身はもちろんですが、見ている人や見ている場がよろこんで盛り上がることを第一に行いますので、ついつい引き込まれてしまいます。


「えー、これだけで人はダマサレテしまうのー?」
という緻密に考えられたテクニックは、伝授会で伝授してもらってくださいね(笑)

印象に残ったのは、人は「タネを明かそうと思ってみてしまう」ということ。
だからこそ、そうさせずに盛り上げるために、マジックには3原則があるということを教えてもらいました。
(この3原則も伝授会で教えてもらってください!)

 


まちがって観客が「タネを明かそう」というモードになってしまうと、純粋にマジックを楽しむ雰囲気が失われてしまいます。

 


マジックは、「心地よい驚き」を感じさせてくれるものです。
脳みその中が「???」と、ハテナいっぱいになることを楽しむものだと感じました。


昨年、とある誕生日祝いが居酒屋でありました。
居酒屋で「ケーキ」が出てきて「ハッピーバースデー」の歌がはじまったときには、「お! 誰が誕生日??
おめでとう!」などとわたしものん気に言っていましたが、それがわたしに対するものだと分かったときの驚きといったら!
とはいってももう誕生日はとっくの昔に終わっていたので、まったく予想外。
あたまの中は「???」のよろこびでいっぱいでした。


マジックもそうだと感じたわけです。

 


たとえ、それがもしかして小さなことであっても、予想外のうれしい「?」はとても楽しく、うれしいこと。

 

ひとを喜ばせたいとき、ちょっとした??をやってみよう。

そのように思った、たのしいマジック伝授会でした。

 

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“妙に”行きたくなるお店の秘密

先日友人と飲んでいたところ、東京以外でなかなかお目にかかれないお店、という話になりました。

 


「妙に行きたくなる居酒屋があるんだよなあ、特別なことはないふつうの大衆居酒屋だけど。こういう店はもしかして東京の文化かもなあ」

その正体はなんだろう?

議論とも言うまでもなくあれこれ話していたのですが、こう言われたときに「それだ!」と納得したことがあります。

そしてそれはさまざまな人やお店や会社にも通じるなあと、友人と別れたあとも何度もあれこれ振り返ってみたのでした。

検証もせず大きなことを言うようですが、何十年といわず何百年と続く老舗企業もこれがあるなと、妙に腹に落ちるものさえもありました。

こういうことです。


「基本動作がちゃんとしている」


特別目立つことをしているわけでもなく、特徴といわれるとコレということもないのですが、でも妙に居心地よく過ごせる。

店員のひとつひとつの動きの基本動作がちゃんとしていて、ちゃんとした背景になっている。

注文を取るにも、品を持ってくるにも、厨房での動きも、料理の質もお店の清潔さも、ひとつひとつの基本動作がちゃんとしている。


なんとなく誰かと話したいときには自然と店員さんが話しかけ、なんとなく黙ってすごしたいというときには自然と店員は黙って話しかけずに自分の仕事をしています。

居酒屋だけでなく、床屋や花屋や、普通の企業でも、人でも、妙に行きたくなる、付き合いたくなるところにはコレがあるように思うのです。

とくに効率化とか洗練化などを掲げてやっているわけではなくとも、ひとつひとつが自然にこなれていて無駄がない。

 


もちろん東京以外でなかなかない、というのは言葉の綾で、日本全国にあるでしょう。

ただ、こういった都市文化としての居酒屋という意味では、
江戸から続くものが積み重なってきたものがあるように感じます。
江戸の言葉で「小気味好い」と言葉もしっくりきますね。


「基本動作がちゃんとしている。」


自分のいとなみを、売買ゲーム・勝敗ゲームではなく、いとなみとして長く信頼されるものにしていくならば、基本においていつでも振り返りたい気付きでした。

 

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自分の本質を見つけるある質問

ひとつの大きな人生の楽しみ。

透き通るように晴れ渡った日に、寒くも暑くもない日、一冊の本をもって、空や緑の見晴らしがよく人のすくない、できれば人のいない場所におもむき、ベンチか椅子に座って、ゆっくり本を読むとき。

できればそれは古典か詩か歴史もののようにいつまでも受け継がれ、いつまでたっても色あせずにいられるものの方がいい。
そして自分がどこにどの時代にいるのかわからなくなるくらいに本の世界に入り込みながら、いつのまにかうとうと昼寝していたら最高だ。

わたしが、おそらく100歳になってもやめないだろうということです。

たとえこれから個人的に社会的にどんな困難があっても、この楽しみだけはやめないでしょう。一冊の本さえもなかった場合は、心に残るフレーズを思い出して、またはいま浮かぶことをあたかも作者のように創造、想像しながら楽しむでしょう。

つまりわたしの本質的な生き方はこのようであり、たとえ超多忙なビジネスに没頭していたとしても、この本質的なものは決して忘れないだろうと思いますし、戻ってくるだろうと思います。

わたしたちは、自分のやりたいこと、自分が本当に目指しているもの、自分の夢を見つけていく場合、「自分の本質」に問いかける場面が出てきます。


自分の本質、が定まると、生きていく方向性に確信を持てます。
根拠がないけれどもとても希望が持てる自信が生まれてきます。
こわばった力が抜けながら、まるで苦労も感じないのに人以上にそれに打ち込みながら、自然体で100%以上の自分の力を発揮している自分に気付きます。


自分の本質、って言われてもわかったような分からないような、なんともあいまいな言葉で困ってしまいます。
かといって、大層な信念や理念を掲げるといわれても想いもつかないし、そんな気分でもそんな感じでもない。

でも大丈夫。
いい問いがあります。

「どう考えても一生やっているだろうな、楽しんで。」

と自然に思えるものは何だろうかと問いかけてみるのです。

それをやっているときはもっとも自然で、気負うことも無理にエネルギーチャージをすることもなく、気がついたらやりたくてしょうながくなって、一生やっているだろうなと思えるもの、思える状態です。


それを「好き」といい、その好きを意識せずとも幸せにやっている状態を「楽しむ」といいます。


「論語」に言います。


「これを知る者はこれを好む者に如()かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如()かず。」 孔子(『論語』)

物事の知識や理論を知っているひとは、それを好きなひとにはかなわない。
これを好きなひとは、これを楽しんでいる人にはかなわない。


体と心が弾むようにいきいきと、苦労も苦労なんてこちらに感じさせずというよりも、それをやることにもとももと苦労なんて感じることなく、とにかく楽しんで、それをやることが本当にうれしい!
という人をみると、

「ああ、この人にはかなわないなあ」

と心地よさを感じてしまいますが、それはずっと昔からそうだったんですね。

 

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山手線を歩いて一周した話

「これは、ワンダーランドやな。」

わたしが東京に来たのはもともとは転勤からですが、転勤に感謝しました。
山手線を一周してからは、東京を地に足着いて好きになりました。

もともと宮崎出身で都会なるものにあこがれもあったのでしょうが、それにしてもおもしろい。


もっと知る必要がある、というより、知りたい!


あるとき決行したのが山手線一周。
電車ではなく、歩いて一周でした。
年末1230日に実施しました。

8時からスタート。東京駅から有楽町、新橋というように回っていきます。
それぞれの駅にタッチしながら、ひたすら歩く。
途中、新宿で軽くお昼の一息を入れて、さらに高田馬場、目白、池袋と歩きます。

もう日は落ちて暗くなったころに年末の上野アメ横を通り抜け、19時すぎにふたたび東京駅に到着しました。

訓練なしで実施した疲れなのか、はたまた別の理由か。
次の日からの年末年始は風邪で熱出して寝込むことになりました・・・

「全部違う」

それがすなおでもっとも強い感想でした。

東京駅と渋谷も違う、新宿と目白も違う、日暮里と神田も違う。
駅ごとにカラーがちがっていて、活気もあれば落ち着いた街もあります。

さらに全部あわせると、またなんとも言えない東京らしさがかもし出されます。
一枚の絵になっているといえばいいのでしょうか。
山手線がすべてを結んでいる、というのもまたいいですね。

たのしい。

大きく見れば、日本もそうなんですね。
それぞれの都道府県に特色やカラーがあってそれをお互いに生かしながら、日本全体がステキなところになっているとうれしい。
世界もそうだとわたしはうれしい。

わたしの夢です。

ひともそう、街もそう、ビジネスも、地域や国も。

小さい大きいどこからでもいい。

カラーを自然に生かしながら、発揮しながら、暮らしながら、一枚の絵のように光っているのがわたしの夢です。

そうなると楽しい。

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もっとも苦しんでいるひとは誰か?

「もっとも苦しんでいる人とは、もっとも理解されない人である。」

今日は言い方がむずかしい。
理解されるかどうかもわからない。
わたしにとっては過激な話題です。

 

もっとも苦しんでいる人、とは大変なご苦労をされたとわかる方々のことではありません。

それは、身近にいるけれども、もっとも理解されない人々のことです。


ある男性A氏は、音が苦手でした。
友人と車で出かけると、音楽を流します。
「ごめん、これ苦手なんだ。」
と友人に声をかけると、友人は、別の音楽に変えてくれます。
友人の好意に、A氏は何もいえなくなりました。


A氏と友人は、街中の騒音の中を歩きます。
友人は「うるさいなあ」と言って、公園近くのカフェに入りました。
心地よいスムージーな音楽が流れます。
「はあ、静かな場所があってよかった。生き返るよ。」友人は一息つきます。


男性A氏にとっては、苦痛そのものでした。


A
氏は、音楽の良し悪しや音の大小ではなく、音そのものが苦手なのです。


どんな小さな音も、彼にとってはノイズに聞こえてしまう。
だからといって我慢すれば生活できないほどでもないし、病院で検査しても、
「異常なし。数値の範囲内」になるでしょう。


人に話しても、
「あ、そう。」

のように、生きていくうえでたくさんある我慢ごとの中のひとつで片付けられてしまいます。

中には、「そんなこと気にすんなよ」で終わらされる場合もあります。

A氏は、もっとも親しい友人にも理解も共感もされず、ただただずっと我慢して生きていくことになりました・・・

Bさんは、ある仕事をしていました。
その仕事では成果もあげ、社会的にも評価が高い。
だれもがうらやみ、「Bさん、すごいね」と心から喜んでくれます。


ときどきBさんが

「うーん、でもね。実は、これじゃないと思っているの」

と少しグチをこぼそうものなら、周りから口々に言われます。
「え、もったいない。Bさんにぴったりで間違いないよ。」

「他にもつらいひとはたくさんいるって。」

「Bさん、わかるわかる。わたしとおんなじ。わたしなんて・・・」


Bさんは何もいえなくなってしまいました。


平均値より「ほんの少しだけ」はずれたひと。
このひとたちがもっとも苦しんでいる。


苦しんでいるという事実は、いっしょ。
でも、苦しんでいるという事実自体が理解されない。


理解されないどころか、苦しみではない、と勝手に解消されてしまう。

これは中島義道さんという方の本に書かれていたことで、わたしが読んだのは学生のころです。

 

 

当時、わたしはこのお話にとても共感しました。
悩める若き青少年ほど、もしかして分かるのかもしれません。


そのときから現在まで、いつのまにかわたしの中で内容が書き換えられているかもしれませんが、「たくさんの中のひとり」であること、ひとそのものである「ほんの少しだけ」はずれたことを大切にしたいといまも思っています。


また

 

「わたしはあなたのことが分かる。」

 

ともめったなことでなければ言えなくなりました。

そしてこれは、特別なことではないんだ。
とも感じています。

現実的にどうするか、できるかは別の話。
またいつか機会のあるときに。

ただ、ひとはひとりひとり違うんだ、と気付かされました。
ひとはわかってほしい。でもわかってほしくない。でも気付いてほしい。
これって、ひとなんだと思いました。

 

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花粉症商談

"KAFUNSHO"と日本語がそのまま英語としてつかわれているかどうかは知りませんが、花粉症の季節まっさかりですね。。。

もう何年か前、はじめてかかった年、というよりも、その場面を覚えています。
ある商談でお客さまのところに行ったときのことです。

その企業の役員さんといろいろ話す場面。
それなりの商談がまとまるかどうかという場面です。

目がかゆくて涙がとまらず、鼻水が出てひとつ話すたびにひとつくしゃみが出るような始末。肌もかゆくついかいてしまい、もう資料をめくることもままならない。

役員さんは
「大丈夫・・・? 今日はわかったから、また今度にしよう」
とやさしく言って、帰してくれました。

わたしは花粉症である。
はじめて自覚した瞬間です。

それまでまったく兆候もなかっただけに、「ああ、ついになったか!」というまるでシェークスピアの主人公みたいな人生への慨嘆(笑)がありました。

ほんと、急に来るんですね。。。

花粉症は、わたしたちの身体をまもるための、カラダの過剰反応、だそうです。
まるでコップにみずを注いでたまるようにしばらくはカラダは花粉がたまっても反応せず、ある一定の花粉我慢ラインを越えると、水がコップからこぼれるように一挙にカラダが反応しだすというわけです。

この「ラインを越える」ことと、そのために「ラインを越えるまでなにかをやる」との関係は、わたしたちのビジネスや仕事においても同じだと感じます。

夢(理念や想い、商品やサービスの良さなども)などを語るとき、

たいがいさいしょは反応されません。


されたとしても、疑わしそうだったり、ちょっと探るようだったりして

静かなスタートであることも多い。ひとりぼっち。


ところがそれを何度も語るうちに、すこしずつ共感してくれるひとが現れます。
その人たちをみてまた周りの人も気になってきます。
訴えたい伝えたいことが聞く人のカラダに染み込んできます。

そして・・・ある一定ラインを越えると!

まるで水がコップからあふれるように、花粉症が発症するように(笑)、

急にあなたに共感者が集まり、もうあなたがひとりではじめた夢(理念や想い、商品やサービスなど)が無くてはならなくなります。
無かった世界にはもどれなくなる、と言ってもいいかもしれません。

ティッピングポイントといったり、感動変局点と言ったりもしますが、

要は、急に来るポイントがあるんだよということ。
これは人の感情や行動に関する研究からの事実、ですから、うれしい話です。

逆に言えば、

それまでは来ないし、来ないけどやらないと水がたまって水があふれないよ、ということです。

この事実を知っているかどうかだけで、ずいぶんと勇気になります。
最初はひとりでも、語り続ければ、やり続ければ工夫し続ければ、

コップに水はたまっていく。

不安に見えるときでも、歩み続けることができます。

あなたはどんなコップにどんな水をためますか?
夢の花粉症、ネーミングはどうかなというところですが、いっしょになりましょう!


追伸
花粉症商談は、その日は帰りましたが、後日おかげさまでうまくいきました。
あまりの光景に、同情してくれたのでしょうか・・・

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人間が知性で負けるとき・・・どうする?

最近もっとも興味を引かれて離れなかったニュースといえば、やっぱり「人間VS人工知能」。

世界超トップクラスのイ・セドルさんとGoogle傘下企業の人工知能AlphaGoとの囲碁対決です。衝撃的でした。

わたしは将棋ファンでずっと将棋ばかり。
囲碁はルールは知ってはいますが、ただ知ってるだけ。
人生でも10局も打っていないくらいです。

将棋対コンピュータはずっと見ていてプロ棋士が負ける瞬間も見ており、

コンピューター将棋の強さの感覚も棋譜をみれば分かります。

囲碁は、あと10年先だ、と言われていました。
将棋の場合の数は10240乗といわれていますが、囲碁は10360乗らしく、
複雑過ぎる、と。
囲碁は人間の知性の象徴である。
最後までコンピューターが勝つことはない、と
(あ、でもどちらも、宇宙の原子の数より多いらしいですので実質無限です。)
それもつい1年くらい前の話ですよ。

ところがところが、201510月に中位プロに5連勝で勝ったと思ったら、

半年後に超トッププロに勝っている。
それも圧勝、というよりも、人間の次元を超えている。
解説のプロ棋士が「意味がわからない」でも「なぜか圧勝している」と話すのを聞いて、

言葉を失いました。

あと数年もしたら、AlphaGoのような人工知能が普通に街で見かけられるようになるでのでしょうし、だれでも使える時代はもうすぐそこに来ています。
2045
年には人工知能が人類の知能を完全に超える-(シンギュラリティ、特異点)ともいわれています。

人間とは何か、がこれからあらためて問われてくるでしょう。
人間が動物より優れているといわれていた知能ではかなわない。
だったら知能って知性ってなに?

コンピューターは疲れない。しかもいくらでもスペックをあげることができる
人間が自動車に走ってかなわないのと同じだから、将棋や囲碁でも負けて当然だ。

という話もありますが、
走ることは人間はヒョウにも馬にもかないません。
力でも、ゴリラや象にはかないません。
でも、知能では知性では勝っていたわけで、

それでここまで圧倒的に進化してきたわけです。

 

それが人間たるゆえんだって。

その人間たるゆえんがコンピューターによって超えられるんですから、

自動車どころの話ではない、とわたしは思います。


いろいろありますが、、、問題、課題は、他でも言っているのでいいとして・・・

チャンスです!

どんなチャンスか分かりませんが、チャンスです!
もしかして言語を使いこなす以来の、火を使う以来の、産業革命以来の、大変化のときに立ち会っています。

すなおな感情で言えば、怖さ半分、ワクワク半分。
もしかして、いまのところすこし怖さがまさっているかな。

すなおなところ。

これをどうとらえるか。
とらえられる時代に生まれることができたのですから、せっかくだから楽しみたい。

楽しみ方はいろいろあります。

人工知能を突き進め、人工知能をパートナーにする路線もあるでしょう。
動物としての自然としての人間のすがたにもどり、これまで見失っていた自然との深いかかわりを取り戻すこともできるでしょう。

どちらも味わいたいなあ。

両方向が同時に進みながら、かならずどこかで美しく融合すると信じています。


わたしとはまったく別の人もいるでしょう。

いずれにせよ、思うのです。

大変化が来るのは間違いありません、わたしたちの生きているときには。

でももしかして、携帯電話がいつのまにか日常になじんでいるように、人工知能もシンギュラリティもいつのまにかそこにある、という風になるかもしれませんね。

 


そのとき、

どういう「あり方」でいるのか。
どういう「あり方」でいたいのか。

わたし、あなたのあり方が問われているのだ、と思います。

そんなことを考えながら、わたしは今日もヘボ将棋を楽しんでいます(笑)

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体が壁をすり抜ける確率

ビッグバンが起こる確率は、人間が壁に向かって飛び込んで壁をすり抜ける確率と同じくらい、と聞いたことがあります。

0.000000…1%くらいの、ちょっと想像できない確率。

それくらいありえない確率。

という例えでしたが、わたしは思いました。

「え? 壁って、すり抜けられるの?」

人間の体もふくめて物体は原子とか分子とか、さらにもっと小さいものでできていて、その小さいものの間には、スキマが広がっているらしい。
だったらたしかに、物体同士がぶつかっても、お互いのスキマをスルリすることはできるなあ。

そう、想像しました。

そして、ゼロではなく、可能性があるって。

だったら、いつか誰かが、何かしら方法を見つけるかもしれないことは否定はできません。


もちろんだからと言って壁に突撃したりはしません。
このブログを読んだ明日にはどこでもドアやができたり総理大臣になっていたりするということはありません。

ひとつひとつの積み重ねがその間にはある、ということはもちろんです。
もちろんですが、科学技術でも、イノベーションでも改革でも、人材育成でも売上でも、「突拍子もない可能性」を想像したり考えたりすることは、可能性を切り開くモトです。

どこでもドア、できるかもなあと考える人は、空間や時間や物理学をまなんだり、またはまなべるようにアルバイトで学費を稼いだりして積み重ねていくでしょう。
報われるかどうかはわかりませんが、想像したり考えたりしないと、やることもなければ、実現に向かうこともない。

世界を相手にしよう、と想像したり考えたりしなければ、世界に向けて準備することもない。10倍効率化しよう、と考えたりしなければ、やろうともしない。

やり方は、わからないです。
だから考えます、調べます、もがきます。
長い目で広い目で深い目でいろんな方法で。


そんなことはどうでもいい。

ひとに言わなくてもいいから、思ってもやらなくてもいいから、いくら変わってもいいから、「突拍子もないこと」、想像してみませんか?

もしあなたの中でワクワクし始めたら、それがスタートの合図かもしれません。

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すごいテクニックを持っていますか?

 

「あなたはすごいテクニックや技をもっている。」

と思われることが、この仕事をしているとたまにあります。
(たまに、ですが。あんまり思われてなさそう(笑))

昔といっても今もですが、わたしの場合ならばビジネスモデルとか営業とかマーケティングとかがメインで、そんなテクニックを勉強してきました。

 


これらはとてもおもしろく、ちょっと試すとすぐに効果が出るものもたくさんあります。

わたしもポイントポイントではよくお世話になっていますし、必要な場合はテクニック重視でアドバイスすることももちろんあります。


「こんなのよく見つけるなあ」
なんというか、新動物を見つけたとか新しい理論を見つけた、みたいな雰囲気で、思わぬアイデアに出会ったときは、うれしさと敬意を覚えてしまいます。


といっても、すごいテクニックが一番を言われると、私の場合は「ちょっと待てよ」としか言いようがありません。


実のところ、わけのわからない局面では、わたしはわたしが大切にしている少ない原則しか使っていないからです。
テクニック、というよりも原理原則です。

それをもとにどうやろうかとイメージしたり考えたりしている、というわけです。

ひとつには、わたしは「考える」ということに重きを置いているから。
即効テクニックではないので、自分でもドンくさいなあと思うこともありますが、結果的にいえばその人や会社のすなおな想いやあり方がより形作られます。

そもそも世の中の新しい価値が出たときは、すべて本質的なことが直観され考られて、形にされています。

 

たとえばわたしの好きな「ホンダ」の本田宗一郎さん。

奥さんが毎日買い物に行くのは大変だ→よし自転車にエンジンをつけよう→これはみんながよろこぶ→原付バイクができた。

 

出発点は奥さんの不満と悩み、つまり奥さんが幸せになるという本質的なことを自分自身の知恵や経験を総動員して考えたわけです。


もうひとつには、テクニックは材料や調味料のようなもの、と思っているからです。
料理人が、さまざまな材料を使っておいしい料理、創造的な料理をつくるように、さまざまなテクニックは、それをどう使いこなすかだと思っています。

ときには、シンプルな素材を味わえるようにすることがよろこばれる場合もあれば、複雑な味のシンフォニーがよろこばれる場合もあります。

だれが喜ぶかといえば、それを食べる人。
その食べる人がどんな顔して喜んでくれるかな。
生きているおおきな楽しみですね。

自分なりの原理原則、それを見つける時間をもっとも大切にしたいですね。

P.S.
三つ目は、たくさんあって覚えきれないから、というのは内緒・・・

 

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実話。UFOを見たことがあります。

UFOを見たことがありますか?
わたしは、あるのです。なんと。
焼きそばでなく、一般的に言う宇宙人系のUFOです。

小学校5年生のときに校庭でサッカーをしているとき、その小学校はちょっとした丘の上にあるのですが、丘から街をみわたすその上空に、白く光る円い物体がピカピカ光って浮いていました。

時間的には15時とか16時。
まだ日は明るいため太陽の光が反射している、というわけではありません。
自分からピカピカ光っているようです。

しばらく「何や、あれ?」と眺めていると、急にその物体はカクカクと上空を動き出して、ピタッと止まったかと思うと、パチンっとまるでシャボン玉がはじけるように、空中で消えてしまいました。

もうびっくり。
UFO見たー」と駆けていった思い出があります。

虫かも知れないし、鳥かもしれないし、単なる幻覚かもしれないですが、今もまだその感覚は覚えているんですから、よほど不思議にびっくり思ったのでしょう。


このときUFOに俄然興味を持っていたら、いまごろはテレビの特番にUFO博士として出ていたかもしれませんが、残念ながら引き続きサッカーに夢中になってしまい、UFOは思い出のひとつになってしまいました。


次に生まれ変わるときは、UFO博士もおもしろそうですね。


ひとが何かに驚く、不思議に思うのは好奇心の原点です。
好奇心は、探究心や向上心の原点です。

わたしは、驚いたり不思議に思うことを大切にしています。

ふつうに暮らしては見逃しがちな、ちょっとした「ひっかかり」。

「なんでだろう? どうしてこうなっているんだろう?」

こういう問いをすなおに感じ、すなおに出せることを大切にしています。

それは丁寧にたどっていけばすでに回答や解決策があるものもあるでしょうし、意外や意外、まだまだ実はわかっていなかった、だれもが見逃していたということもあるでしょう。

このちょっとした「ひっかかり」を大切にできるひとが、新しい何事かを創っていくのだろうと思います。

あなたが驚いたり、不思議におもったり、「ひっかかり」を感じたりすること、どんなことがあるでしょう?
もしかしてそれがあなたの将来を決めるビッグチャンスになる・・かも?!

世の中はおもしろいことに満ちています。

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海の恋人

そんなに古い話ではありません。

ある地域の海で魚がほとんど取れなくなりました。
牡蠣も不良が続きます。
昔のにぎわった光景をしっているひとから見ればまるでモノクロのようです。

もう魚はもどってこないんじゃないか。
どんなに海を見ても、もう気配を感じることもすくなくなってきました。

そんなとき、まったく違う方向をみている一握りのひとたちがいました。

海と間逆の方向。
漁師が向かった先は、山でした。

「なんで漁師が山に行くんだ。」

かれらは山に樹木をうえ、育てはじめました。

「そんな暇があったら、海で舟を出して働け」

わけのわからない行動に、容赦ない声もたくさんありました。

でも漁師には直観がありました。
そして後押ししてくれる研究者もいました。

周囲の反対をよそに、森を育て続けます。

そして木々が繁栄し、虫も鳥も動物ももどったころ、
 海には魚がもどりました。

三陸海岸、宮城か岩手のどこかの話です。

山の木々、森で育った植物や動物土に返り、あたらしい養分として、雨とともに川に流れ込み、海へと注がれます。

海は森の養分をたっぷりたくわえ、魚たちはまたもどってきました。

「森は海の恋人だ -」


まとめをしようと思ってここまで筆を進めたのですが、なにを書いても陳腐になってしまいそうなので、、、今日はやめます。

ことがらのみで今日はおしまい。

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夢(寝るときの)日記をつけた話。

「夢日記」をつけていたことがあります。
未来への夢ではなく、寝ているときに見る夢。

枕もとにいつもノートとペンを置いて、目がさめたらすぐに覚えている夢の内容をありのまま書きます。

とくにまとまったものにしようというものでもなく、ただ覚えているままに書き連ねます。


なぜやったかと言えば、わたしはメンタルケアもやっていますが、その関係でいわゆる無意識とか深層意識というものを研究していたからです。

夢診断、というものがあります。
心理療法としての夢診断の専門家もいます。

わたしの場合は、この無意識の動きというものを自分を実験台にして確かめたかった、それをもしあわよくば、困っている人やお客さまへのアプローチにできないかと思っていました。

夢の中身は、もう、なにがなんやらわからないものだらけ。
あなたも夢の世界ではワンダーランドが繰り広げられていることでしょう。

また、不思議なものです。
毎日書いていくうちに、どんどん夢が明確になる、というより、すみずみまで覚えていくようになってくるのです。

空を飛ぶ夢はよくみました。
雰囲気としては、すーっと浮かび上がるような、ドラゴンボールの人たちが空に浮かんで飛べるような雰囲気です。

どんどん空にのぼってしまい、このままでは大気圏をこえてしまう、こわい、なんて思って目が覚めたこともあります。
いっぽう、空を飛んだときに下にみえるのは、深いどこまでも続く森や、ゆるやかだけども底が見えない大河のようなこともよくありました。

ドタバタもたくさん、言えないこともたくさん(笑)

夢日記は数ヶ月やりました。

当時の状況や、夢に関する理論や、そのときの感情などと照らし合わせながら、

結構まじめにわたしなりにやったものです。


無意識や夢がわかった!


ということはわたしはありません。

正直なところ。

下手になにか決めつけてしまうことはできない。

というより怖い、のかもしれません。

ずいぶんとひとの夢やイメージって不思議なものですね。
わたしに夢のことを聞いても、解釈や意味はわかりません、と答えるしかないのです。
もちろん夢を使った治療などはできません。

ただ、、、思うのは、
その夢をみて今そう感じているんだ、、、
というありのままの事実は大切にしたいと思っています。

 

 

どうしてそれを見たんだろう、どう感じていたんだろう。

 

それを解釈でも意味を付けるのでもなく、ただ答えもなく味わってみる。

下手な解釈は、味わい深い豊かさに枠を当てはめてしまいます。

ちょっともったいない。

 

 

・・・とわたしは思う。

 

 

わき上がってくるものを味わうことがもしかして、起きて叶える夢のモトになっているかもしれません。

 

そんなとき、

 

 

「これこれ、この感じだ!」

 

 

まるで最初から答えがわかっていたかのように、意識と無意識がつながる瞬間があるかもしれません。



もしわたしが寝てみる夢を活用するとしたら、ありのままのすなおな夢を見たんだ、ということを大切にします。

 

 

夢って、寝て見ても、起きて見ても、楽しいものですね。


・・・まあ、もっとも幸せなのは、夢を覚えていないくらいに、ぐっすりと寝て気持ちよく目が覚めたときなんですが・・・(笑)。

 

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小さな会社の大きな資源

あるときこんな記事を読みました。
どう感じるかは、あなた次第(笑)

 

おなじような業種で比べると、大企業と中小企業では、大企業の方が給与は高い、と、そういう記事です。

 

 

もしかしてひとり何役も必要なことが求められる小さな会社の方が能力はすごいかもしれない。

(たしかに、そんな会社たくさんありますよね。)

 

しかしその差はなぜだ。

 

それは、ひとりあたりが使える資源の量

(資金、モノ、情報、信用、ネットワークなど)が違うから、

だそうです。


わたしはもともとベンチャー企業、ちいさな会社入社が出発点。
実感はあります。
うーん、そういえば、会社アピールひとつでも苦労したなあ、

なんて振り返ることができる場面はいくつでも(笑)


ともあれ、個別のことはさておいて、マクロな視点でみると、

たしかにそうだよなあと事実として淡々と受け止めています。


それぞれの社会における役割って何かなーと考えるわけです。


大きな会社は、その資源をどうやって有効に効率的に使って

社会の役に立つかがひとつの役割なのでしょう。


では起業家や、小さな会社の資源ってなに?


わたしは「夢」や「理想」や「希望」だと思っています。
「理念」と言ってももちろん!


たとえ突拍子もなくても、ひとりの想いや好奇心や夢や希望が、

「こんなことしたい! やりたい!」

という勢いや、あたらしい価値を生んでいきます。


この方法がダメならあの方法でいこう! と、夢だけを見すえて、

行く道はどんどん方向転換したりして楽しむことができるのは、

もしかして、小さな会社の特権かもしれませんね。

 


ほんとのこといえば規模の大きい、小さいは関係ありません。

ただ小さいからこそ強烈な資源として

「夢」や「理想」や「希望」や「理念」を意識することが大切だと思っています。

 


ひとりひとりがイキイキと輝いている会社、

「こんなこと目指してるんだ。こんなおもしろいことやっているんだ」

と目を輝かしているところは大好きです。


それぞれが輝く会社ばかりならば、楽しい社会だろうなあ。

 

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提案営業とAmazonの共通点

提案営業をしていると、これは売れる、というときと、今回の案件はダメだというときが、けっこうはっきりわかるときがあります。


それはお客さま側から感じることでもあり、自分自身から感じることでもあります。
両方がおなじよう感じています。


そういえば、ネット書店のAmazonの話を聞いて、「おんなじだ!」と納得したこともありました。

 


この感覚はこういうものです。

 

お客さまののぞむ方向をなんとかしてかなえようと一緒になって考えているときは、

お客さまが選んでくれます。
お客さまの横に立ちながらパートナーとして、同じ方向をめざす感覚です。

 

お客さまののぞむ方向は2番目、3番目以下、

どうこの商品やサービスを売ろうと考えているときは、まったくダメです。
お客さまの真正面に立ってなんとか説得して落して、お客さまに勝とうする感覚です。

 

 

そして、Amazonです。

 

Amazonは、

「売って」いないそうです。

「買うお手伝い」をしているそうです。


思い返してみれば、次から次に、あなたへのおススメ本が表示されてきます。

それがまたわたしにとって、

「たしかにこれも読みたい、もっと深めたい」というものが表示されてきます。

ついクリッククリックしてしまうのはわたしだけじゃないでしょう。


買いたい、と思ったら、

とくに何度も入力せずにクリックだけで手続きもすぐ終わりますから、ストレスも少ない。

 


本屋さんも大好きですが、Amazonもやっぱり何度も使ってしまいます。

 


「買うお手伝い」を徹底的に突き詰めているんですね。

 


自分自身の中で「売ろう」としていて、

お客さまから「売られまい」と抵抗を感じるときはやはりよろしくありません。

 


しかし「なんとかしてお客さまの悩みや希望をかなえていきたい」と思いながら、

お客さまといっしょにその方策を考えているときは、

提案している本人も心地よくやる気になってきます。

 


「売る」としているときは売れない。
「買うお手伝い」をしているときは売れる。

 


大切にしたいです。

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人が去る場所、集まる場所の違い

ある定食屋さんがありました。


人通りもそこそこあり、近所のお店も人が入って繁盛してます。


その定食屋があたらしくできたときは、もの珍しさにひとが集まってきました。


出てきたお客さんは口々に言います。

 

ひとりではなく、何人も。


「ここは、つぶれるなあ」


あのー、わたしもそうつぶやいてしまいそうになりました。


料理の味は、まあおいしいし、価格も普通です。
いろいろ工夫はできるのでしょうが、そこに理由があるのではありません。


お客さんは言います。


「店員さんが、ちょっと・・・」


理由は単純です。


店員さんが、なぜか「ぶすっとしていた」。
笑顔もなく、注文を取る声も、張りがなく最小限です。


たまたまかなーと思っていたら、開店直後から通りかかるたびにいつも。
きっと本当はぶすっとしていたつもりではないのかもしれません。

事情はわかりません。

 

とはいえ、お客さんを見ると、

もう一回行こうかなーとは思っている様子はまったくなかった。

 

そして数か月後・・・


予想が当たったのでした。

 

・・・


逆に、あるマンガカフェ。


マンガカフェだもの、しずかにしていれば、あまり店員さんは関係ない。

 

 

と思いきや!

 


むちゃくちゃ笑顔で、楽しい雰囲気を醸し出し、

レジではいろいろ笑顔ではなしかける店員さん。

お客さんもいつも笑ったりしながら一言二言会話して出入りしています。

 


「異様な繁盛」をしていました。

 


マンガを読んだり、カフェに来ているのではなく。
完全に店員さんに会いに来ています。

いつのまにか店員さんを囲む会のようになっていたのはびっくりしました。

 


何を提供しているかも大切です。
それと同じくらいどんな人、どんな雰囲気で提供しているのかもとても大切なんですね。

 


楽しいところ、心地よい人のところに人は集まる。

 


印象深い光景でした。

 

 

P.S.
ある時、マンガカフェのその店員さんが辞めていなくなりました。
・・・するとしばらくするとそのお店自体も・・・
実話です。

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なんとなく淀んでいるときの対処法

停滞気味のことがありました。

 

ちょうどこんな春を待つ時期の話です。


いろいろ考えていても、それ以上先にすすめない感覚。


仕事をしていても、どうもアイデアも出にくい、ドライブをかけているつもりがプンすかプンすかエンストを起こしながら進んでいる、そんな感覚です。


これが、あからさまな危機! のようなことならば、逆にやる気もわいてきてパワーをはっきしたくなると思いますが、なんとなくどよーんとよどんでいる感覚です。


そんなとき、思い切ったことがあります。

 

それは「捨てること」。


自宅にあるもので、捨てられるものは全部捨てたり、処分したりしました。
まるまる朝から晩まで二日+処理にかかった時間をかけました。

 

服や靴など衣服品・・・3分の1になりました。
むかしからのCDやDVD等、ごみ袋いっぱいになりました。
さまざまな什器など・・・日用品以外はすべてなくしました。
書類もたくさんありました。。。


本・・・これがもっとも大変。

それまで生きてきてこの方、一度も処分したことがないため、部屋も押し入れも本だらけ。


その中から、ひとつひとつ吟味しながら「残すもの」「処分するもの」を分けたのですが、

ひとつひとつ思い出があったりつい読み込もうとしたりしたため、

涙が出るような(身を切られるような)作業でした。


(近藤まりこさんの「人生がときめく片付けの魔法」を参考にしました。

この本はすごいですね・・・)


でも、でも、おわったあとはとてつもなくスッキリ!

 


「よどみが一気に流れ出した!」

 


目の前の空気がまるで目に見えるようサラサラ動いたように感じたことを覚えています。

というよりも、見えた。
そう言っていいかと思います。

 


何かが停滞していると感じたとき、モノだったり、環境だったり、

もしかして不必要な作業だったり、気の乗らない関係だったりするかもしれません。

 


そんなとき「思い切って捨てる」。

 


これはおススメです。

 


捨てたものには感謝。
わたしの場合は、たくさんの本が教えてくれたことに感謝しています。
覚えていたり忘れたりしたりしていても、ぜんぶいまの血肉になって、支えてくれています。

 


また不思議なことに、その空いたスペースといえばいいのでしょうか、

わたしの中で空いたところにといえばいいのでしょうか、

またこれまでとは違ったいい本たちに出合うんですね。

 


よどんでいる感覚があるとき、それは

 


「もうそろそろスペースを空けて、窓を開けよう」

 


という自分自身からのシグナルかもしれませんね。


空気が一気に流れることを感じられますよ。

 

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目立たないけどすごい夢

某有名な同郷人のコックはひとによって激しく好き嫌いはあるでしょうが、わたしはその夢が好きです。


わたしが目指す方向性もこんな夢に近いような気がします。

ぱっと見は、なんだそんなこと、のように見えて、実に奥が深く壮大な夢だとわたしは感じます。

日本人の食卓の調味料、といえば、さしすせそ、が代表でしょうか。
砂糖(さ)、塩(し)、酢(す)、醤油(せうゆ)、味噌(そ)。

ふつうの食卓に、ふつうに使われていますよね。
何百年以上の歴史があり、

日本といえば」

という文化になっています。


だれが始めたのかわからないけど、いまでは、これらがない世界が考えられない。


彼の夢は

 

 

「調味料を作ること」

さしすせそ、のように、ふつうの食卓にふつうに使われる調味料を作ることだそうです。

一瞬、流行の味のようになって終わりではなく、

気がついたらいつのまにか深く日常に根をおろして、ふつうの味となっている。

気がついたらなくてはならないとなっているような調味料をつくること。

 


かれの調味料の分、いつの間にか日本の食卓がひとつ豊かになっている光景を想像すると

わたしもワクワクしてくるわけです。

あなたの夢はなんですか?
またいつか聞かせてくださいね。

 

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「心の声」がわからないと言われました

しばらく前の話し。


むかしからの友人が悩んでいたときのことです。連絡があり、話を聞いていました。


ある方向性を選ばないといけないのですが、どちらを選んでいいのかわからない。
「効果」とか「メリット」だけではどちらも良し悪しで迷う内容でした。


わたしは言うわけです。

 


「心の声にしたがおう」


(よっしゃ、今、かっこいいこと言った?!)


すると友人は「わかった・・・」といいつつ、数日後電話をしてきました。

 


「わからん。心の声ってなに?」

 


気持ちいいくらいの、疑問。
カツーンとやられました。


「心の声」なるものを聞こう、聞こうとしたらしいのですが、

それが何なのかわからないから、結局なにが何だかわからないという。

 


言われてみれば、たしかに。
わかったようで、わからない。

 

 

わたしはなんとなく自分では感覚で感じることはあるので、

それをなんとか分かりやすく伝えるべく、手を変え品を変え言葉を変え、説明しました。

もう、わたしのほうが必死です(笑)

 

 

自分自身、あらためて考えさせられたわけですね。

 


友人のおかげで、ひとつ、「わかったようなこと」をちゃんと自分で自分の言葉で考えることができました。

 


メリットや効果の核になっている本質、自分自身を考えようとすると、たまに分かったようで分からないことに出くわします。

 


そんなとき、すなおに「わからない」と言えることはすばらしいことです。
わからないことを一所懸命考えていることそのものがすばらしいことです。

 


あなた自身で納得いったとき、心からそうだ、と思えたとき、

あなたが決める選択も、メッセージも力強く、なんとも言いがたい魅力を出していきます。


大切にしたいです。

 

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日本の中心をぐるっと回って見えたこと

ついこの前、日本の中心をぐるっと一周してきました。

 

東京駅を出発して、東海道新幹線で米原まで行き、いったん福井。


その後、福井から、金沢、富山、長野とあたらしくできた北陸新幹線で東京にもどりました。

日本列島の真ん中の地域をぐるっと周ることができる世の中になったんですねー。

 

ひとが流れるルートは変わっていくのでしょうね。

 

とくに、北陸新幹線ができたおかげで、

ずいぶんとひとの流れも変わっていくのだろうと思います。
たとえば、東京から金沢向けに飛行機で行くひとは減っていくでしょう。

 

 

ひとが行きかうことで町々が発展するとしたら、

ひとという価値の「流れ」が変わると存亡を決する、という言葉は決して大げさではありません。

 


「流れ」

 

 

は、とても大切な考え、だと思っています。

 


わかりやすくて、とてもいい商品やサービスが

なぜか売れない、お客さまにえらばれないということがありますが、

それはたいてい「流れ」ていないからです。

 


たとえば

 

 

きちんとお客さまの目に留まるようになっていますか?
(お客さまが気付く流れになっていますか?)


お客さまがすんなり選びやすくなっていますか?
(お客さまがすぐに良さや中身を理解できるようになっていますか?)


お客さまがカンタンに手に取るようになっていますか?
(お客さまが買いたいと思ったときに買えるようになっていますか?)

 


などなど、あなたの商品やサービスの価値がお客様に流れている、とイメージすると、

どこで流れが詰まっているかを探すだけで、

いきなり反応がよくなったり選ばれたりしていきます。

 


わたしはこのことを考えるたびにいつも、子ども時代に、

砂山をつくってそのてっぺんから水を流して川ができるようにして遊んだ記憶がよみがえります。

 

 

山の形を変えたり、水の流し方を変えたりすると、

川の形も変わってきます。

 


流れを作るっておもしろい。
楽しんで流れを作ってみましょう。

 

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転機となった穴ぐらのような部屋

むかし、SE・プログラマーを2年ほどやっていました。


まあ最初はぜんぜんできなかった。

それでもなんとかかんとか少しずつできるようになり、ある大型案件に入ることになりました。

そこで転機が訪れるのです。

ぐらのようなコンピュータルーム。
毎日長時間労働、終電あたりまえ。
仕事としてはがんばっていたつもりでしたが、気持ちは忍耐。

あるとき、当時のわたしにとって衝撃の気付きに出くわします。


そこでは他社のプログラマーも

お客さま先でいっしょに同じシステムをカタカタとつくっています。

彼らは、よくできます。

わからなくなるといつも教えてもらっていました。

 


そうこうするうちに仲良くなり、あるとき、彼らと接してハタと気付きました。

 


「あ、、、ほんとに好きなんだ。プログラム作り。」

 


最新のプログラムテクノロジーがどう、ソフトウェアがどう、ハードウェアがどう、

そんな話をしているときにイキイキしているんです。
またそのパソコン業界雑誌も当然買い込んでいます。


そりゃ、ここまでできるわけです。


そして、

 


「うわ、僕はそこまで興味ない。こりゃだめだ。」

 


わたしは、仕事としては一生懸命やっていましたが、

プログラム作りはそこまで好きでもなく興味ももっていないことに愕然としました。

 


自分の道はこれではないんだ・・・

 


同時に、システムというよりも「仕組み」を考えることや、

どう業務がよくなったりするかを考えることは好きだとも気付きました。


なるほどー
一方はプログラムそのものが大好きで、一方はそれが社会に役立つ方法を考えるのが好き。


好きな人にはかなわない。
心地よくスコーンとやられた瞬間です。


結局その後、コンサルティング・営業という方面に進むわけですが、それはわたしに合っており、プログラム開発のときとは違って一気に自分の世界が開けた感覚がありました。

 


自分の好きな道がもっとも自分の力を発揮でき、イキイキできるんですね。。。

 


シンプル。

 


でもわたしにとっては切実な体験でした。

 


あなたはいかがですか?

 

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ゴマ油に真正面から向き合うと・・・

電車で目に留まりました。

こういうの、好きです。

「これ、買いたい!」と思いました。

なぜならば、

作り手の

「そのままかけても美味しい」

に、

「こうやってあたらしい幸せを感じてほしい」

が現れていると感じるからです。

 

またそれだけいいものをつくっているという矜持を感じるからです。

 


1%価値は、それを使うお客様の生活や考え方を変えます。

 


ゴマ油はふつうは風味付けに使われたり、

中にはコレステロールが低いからと健康のために使うことが多いのが一般的かな、と思います。
レバ刺し、などちょっと特殊なものにつかうもの、という感覚もありますね。


あいかわらず主役は、サラダ油でしょう。

 


ところがこれは、真正面。
ゴマ油の良さが真正面に伝わってきます。

 


そうか、そうだたったのか。

「そのままかけたい」
試したくてしょうがなくなりました。
うまいことわたしは引き込まれてしまったわけです(笑)

 


もともとゴマ油がもっていた魅力(価値)をわたしたちに教えてくれていますよね。

 


「もっと食事が楽しくなるよ」

 


もともとの魅力を引き出しながら、あたらしい生活を提案してくれているのです。

 


「わたしのこれを使えば、こんな幸せな生活ができるんだよ。」

 


あなただからこそできる新しい提案はなんでしょう?
使う人やお客さまの生活スタイルを変える提案ってなに?

 

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あなたの赤色はほんとうに赤い?

あなたが見ている「赤い色」は、わたしが見ている「赤い色」とおんなじなんだろうか?


同じものを見ても、同じ色をみても、もしかしてみている人の目によって、その「赤い色」は違って見えているかもしれない。。。


なんてまじめに不思議に思い、そんな学問をしたりしました。
(願わくは、ずっとそんなことを不思議におもう人でありたい。)
むずかしく言えば、認識論とか独我論とかなんとかかんとかあるのですが、それはさておき。


ひとは同じものを見ていても、

見える風景はまるきり違うんだろうなあとはつくづく思います。


何を見ても危なく、危機的状況に見えるひともいるでしょうし、
何を見てもおもしろく、チャンスな状況に見えるひともいるでしょう。


どちらが正しいか、というよりも、

わたしにとって大切なのは、わたしはどちらを選ぶかです。


わたしは、可能性を見よう、明るいほうを見ようと決めています。


夢のようなことを考えているひとに、

「これはダメ、あれもダメ、あなたはできていない、考えていない、なに考えているの?」

と言うのはカンタンでラクですが、わたしは

「こういう可能性も考えよう、あれも考えてみよう、やってみよう、

広く長く深く考えてみよう、まずなんでもいいじゃろ、思い描いてみよう。

何度失敗してもいい。また起ち上がろう。僕は信じている。僕はいる。」

と言うと決めています。

わたしも、やり方はわかりません。
ただ、あり方は決めようと思っています。

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“驚き”におどろく

わたしはずっと悩んでいました。

 

わたしは哲学出身です。

オフィスオントロジーの「オントロジー」は「存在論」という意味。

「学生時代、こんなものがあるのか。。。」

という世界がひっくりかえったような驚きを忘れないよう付けました。

 

それはそれとして、じゃあ何が僕にはできるの?

テーマとして、人材育成、営業、その他いろいろ試しはますが。。。ふむ。

 

しかも、いろいろアドバイスされても、ありがたいとは思いつつも、自分の中でしっくりこなかったらやりたくないと思ってしまう。

 

なにか一本筋が通っていない感覚が取り切れない。

 

自分自身にすなお? 天邪鬼?

 

 

 

たしかに経歴はあります。

仕事での実績もあるでしょう。

 

それを「特徴」だったり「強み」だったりして生かすことはできます。

頭ではわかる。

でもまだしっくりこない。

 

 

「ぼくの何が、今を形作っているんだ?」

「それって、ぼくのやりたいこと?」

「なんなんだこのしっくりこない感じは?」

「本当に社会で役に立てるのか?」

 

 

などなど。

動けと言われたらその通りですが、

動きのもとにあるそれは、自分自身への本質への問い、なのでしょう。

 

 

ところが、ふとあるとき気付いたのです。

 

 

「あ、そういえば、僕は、驚いている。」

 

 

思わぬアイデア、思わぬ考え、

えっと思うところの良さの発見、常識のすごさと常識でないことのすごさ、

なぜなぜなぜ・・・

 

 

そういえば、思い出しました。

哲学とは「タウマゼイン(存在驚愕)」であると。

かんたんに言えば、ものごとに純粋に驚くこと、不思議に思うこと、ですね。

 

 

世の中のさまざまなこと、ビジネスで今や当然と思うことも、

はじめは、はじめは良くも悪くも不思議に思ったり、驚いたりしたことから始まります。

 

 

それを、ムダなこと、意味ないこと、考えなくてもいいことなんて切り捨てないで

なんとかしようと思ったり、活かしてみようと思ったことから、

世界は形作られてきました。

 

 

「驚く」っておどろくべきことなんだ。

それに気づくのが驚きでした。

 

 

驚くことができる。

 

大切にしたい。

 

 

原点のひとつがここにあります。

 

そしてあなたの驚きをも大切にしたい。

  

いっしょに驚きを共有し喜び合えること。

わたしのこの仕事のおおきな楽しみなのです。

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干物屋での原体験

「価値をカタチにする鍵とは。」

 

どれだけ相手の目になって想像できるか。

 

ということをわたしはある経験で実感しました。

学生時代、デパートの物産展でバイトをしていました。干物屋さんで販売員です。

うるめいわしやアジの開きなどを展示台にならべて、

学生らしく元気よく声を上げて呼び込むと、

その日の晩御飯を探す主婦が品定めをしてきたものです。


あるときわたしにある主婦から干物屋の店主にクレームがありました。

 


店主が言うには、
「うるめいわしを奥の保存袋から取り出してそのまま渡した」
ことへのクレームです。


前に並べているうるめいわしはライトも当たるし、人ごみで誇りも舞うだろう。
だったらきれいなままの袋から取り出したほうが喜ばれるんじゃないか?


そう思っていましたが、その主婦の見方は違っていました。



きれいに展示されて光の当たり具合もよいうるめいわしがおいしそうだった。
食卓に並べるときれいなんじゃないか。裏から取り出したのは古いものなんじゃないか」


と。

違うものですね。


そこで主婦の目になりきって想像して、こんなことを始めました。

「この、うるめいわし、ちょうだい」
「ありがとうございます!

じゃあ、こちら(裏の保存袋)の方が前に並べているものよりも新鮮できれいなんで、

こちらからでいいですか?」


主婦の目になってなぜ裏の袋の方がいいのかを添えると、

それを聞いた方はほぼすべて裏の袋を指定してきました。


クレームもその後はなく、また驚くほど売れたものでした。

(干物屋の店主から「卒業したらうちに来い」と誘われたのは

学生時代のじつはひそかな自慢です。。(#^^#))


お客さんの目になって、ちゃんと価値を伝えて、カタチ(サービス)にする。

 

 

お客さんの目になりきって想像する、ということがポイント。

この原体験が、その後社会人になってからのどれだけの実績につながったことか。

 

 

もしこれがあなたの商品やサービスでできたとしたら・・・

 

 

すごいことになりそうですね。

 

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イメージしてみるといろいろ教えてくれる

本質価値、っていってもよくわからない。

 

そんなとき、わたし自身もやっていて、またわたしもよくセッションで質問して聞いたりすることがあります。

 

それは、、、

 

 

 

イメージ。

 

なかなか、最初から言葉にしたり、

とりわけそれを「メッセージ」とか「売り文句」のように、

洗練されたものにはできません。

 

なんとなくぼんやりという感じが続くけど、

どう言葉にしていいかわからないってことありませんか?

 

 

そんなときは、自由にイメージしてみます。

 

「具体的に」

 

ってモノの教えでは言われたりすることもありますし、

それはある時点からは正しいのですが、わからなければ無視して「自由に」イメージします。

 

 

たとえばときには「赤い感じ」とか「黄色だけどすこし濃い黄色」とか、

「原色じゃない。パステルカラーだ」という場合もあるでしょう。

 

 

もしかして、「モーツアルトのような感じ」とか、

「違うJAZZだよ。」

「Rockだ。それもギターではなくベースの、ズンズン、っていうリズムのような感じ」

のように、音で出てくるかもしれません。

 

 

そういう「イメージの感じ」。

 

 

あなたの商品やサービスと直接結びつかないことも多いかもしれません。

でも、この「感じ」を大切にすると、それが軸になったりします。

 

 

「イメージ」は創り出すものではなく、自分の無意識の中からわいてくるものなので、

あなたの本当に大切にしたい方向性を現してくれていることが非常に多いんです。

 

 

だからその「感じ」から外れると、

なんとなく自分にモゾモゾやイライラを感じたりして、

意外にあなたの軸や大切にしていることを教えてくれるんですね。

 

 

それを具体的に落とし込んでいくと、

カタチやメッセージになったりしてきます。

 

 

イメージはお客さまに伝わったり、喜ばれたりする「原風景」。

 

 

イメージのチカラ、あなどるべからず。

 

 

お風呂場、寝る前、夢の中、ぼーっとしているとき、リラックスしているとき、

遠慮せずぼーっとしてイメージしてみましょう(*^-^*)

 

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バレンタインデーが根付いたわけ

もう終わりましたけども、バレンタインデー。

 

甘酸っぱい思い出がわたしにもあります。

あなたもきっとあることでしょう。

 

チョコレートを待つドキドキ感と、待っていると悟られない意地っ張り感。

あのときの緊張が戻ってきてほしいくらいです(笑)

 

こんなにもバレンタインデーが根付いたのはなぜでしょう?

 

チョコレート屋さんがプロモーションで仕掛けた商業主義・・・

というのは簡単ですが、ここで考えたいのは、

ほかにもいろんな記念日を仕掛けているひとはいるのに、

なんでバレンタインデーだけが、ということです。

 

 

いろいろ考えられますし、考えてみるとおもしろくて意外にとまらないです。。。

 

 

わたしはそのひとつとして、バレンタインデー、

つまり好きな人に思い切って何かを伝える、という恋や青春の甘酸っぱさが、

ひとの本質のひとつだったからだと思っています。

 

 

どんな時代にもそういったことはあったでしょう。

むかしの平安貴族ならば和歌でしょうし、

すこし前でも好きな子に電話(家の固定電話!)するなんて言ったら

そりゃもう心臓がバクバクしたものです。

 

 

ひとが生きていくうえで、生活していくうえでの本質を、

うまく記念日にチョコレートを贈るということに結び付けたひと、

すごいなあ、うまいなあと思います。

 

実は365日、全部に「○○の日」という記念日がついているのですが、

祝日を除いたら、もっとも知られているものはこのバレンタインデーです。

 

 

それだけ、ひとが感じる「ここぞ」という本質ポイントに訴えかけているんですね。

 

 

自分の商品・サービスを単なるメリットや機能だけでなく、

「人のどんな本質」につながっているかを考えてみると、

すごいことになるかもしれませんね。

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「汗を感じるほどに」がアルファとオメガ

子どものころは、土器や石器を集めて、それをぼーっと見て想像するだけで楽しくてしょうがありませんでした。

 

こういう感じの絵、好きです。

眺めるだけで一日過ごせそうです。

 

 

モノ売りが呼び込んでいたり、それをからかっていたり。

 

 

ちょっとえらい感じのひとたちが胸はって街をあるいていたり、

ナンパとか、ケンカとか、ゲームをしていたり、子供が走り回っていたり、

井戸端会議していたり・・・

 

描かれている風景は、現代とは違うけれども、

やっていることはけっこう今と変わりません。

 

 

おもしろいなあと思います。

いまといっしょだ、なんて楽しくなります。

ほんと、2000年前、200年後なんてすぐですよね(というのはわたしだけ?(笑))

 

 

ひとりひとりの人が、まるでその場にいるかのように

汗のにおいを感じるほどの近い存在となります。

 

 

わたしは、これが、提案する/何かを伝えることの

アルファにしてオメガ(基本でもあり究極)であると思っています。

 

何かを提案するとき、伝えるとき、

わたしはまずは相手を、まるで汗のにおいを感じられるほどの想像します。

 

 

こんなとき、ちょっとしたことだけど、これは困るだろうなあ。

そうか、これだと気付かないだろうから、ちょっと案内してやるとうれしいだろうなあ。

ここだ、ここで汗をかいているんだ。

 

 

これができると、とてもいい提案になりますし、とてもいいメッセージもできます。

それが共感を呼ぶと、たくさん売れます。

 

 

まるで汗のにおいを感じられるほどに想像してみる、共感してみる。

 

歴史とか、自分のすきなひとやものなどからやってみると、楽しくてしょうがありません。

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「誰」になろう

言われてみればたしかに・・・

 

正しいことを言っても、ためになることを言っても、同じ話しをしても、聞きたくなる人と、聞きたくない人がいます。

 

わたしたちは無意識に、ときには意識的に、話の中身よりも、「誰が言っているのか?」で話を聞くか聞かないか決めていますよね。

 

 

「夢は大切だ。」

 

同じことを聞かされても、本当に夢が大切だと思っていて自分自身あきらめずに向かっている人からいわれることと、裏では「夢なんてウソだよ」と思っている人から言われたのでは、受け取り方は180度ちがいますよね。

 

もしあなたが伝えたい、こんな価値を世の中に広めたいと思ったら、

聞いてもらいたい人にとっての「誰」になることが大切です。

 

そのためにあなた自身を、ひとつひとつ丁寧に棚卸してみることは、大切な時間だと思っています。

あなたに無駄なものはひとつもありません。

ひとつひとつ丁寧に棚卸してみませんか。

 

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やる秘訣はやりたくなる

ドリームプランプレゼンテーション世界大会2015で事業計画作成講座の講師をやった時の一コマ。

 

ドリプラ世界大会では事業計画を作ります。

事業について相談を受けて、「事業計画はどうですか・・・」みたいな話もあります。

 

ところが、ひとつハタと気付きました。

 

なかなか進まないことが多かったのです。

事業計画はやれば面白いのですが、やるまでがハードルが高い。

 

 

「そうか、事業計画って、、、そもそも、作りたくないんだ!」

 

 

発見でした。

作れば、構想が明確になるし、

できることできないこと、やれること足りないことなどがわかり、

必要性も感じるものですが、

そもそもやりたくない。

 

事業計画っていう言葉がまず難しいし、

専門的そうでとっつきにくいし、

やっても意味あるかどうかわからないし、めんどくさい。

 

 

わたしもそうです(笑)

 

 

そこでわたしは、講師をやるときにこの講座の1%価値を考えました。

 

そこで出てきたのが

 

「やりたくなること」。

 

事業計画の作成方法のような書店や専門家がやるような細かことは抜きにしました。

大事なのは「事業の計画が立てられること」なので、

そこにフォーカスして「これだけやれば」というものにしました。

 

一度でも簡単にできるんだと覚えていただければ、

あとはどんどんみずからやっていきます。

とくだん先生も、コンサルもいりません。

 

 

やりたくなるにはどうすればいいか?

この講座の出発点であり、

 

「とにかく一回は作成してみてやりたくなるようなものにする」

 

をゴールに定めたわけです。

 

 

わかりやすい。

楽しくなった。

また自分でもやってみます。

 

 

と言ってもらえたのは、うれしい限りでした。

 

あなたが何かチャレンジするときの、1%価値は何ですか?

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某中華街の某お店のアイデア

こちらは某横浜の某中華街の某お店。

まあ、横浜中華街です。

 

こういうアイデアチャレンジは好きです

 

あるお店に入りました。

 

 

 

できるだけ小さな路地の、

できるだけ汚い(失礼!)お店に入ろうと決めて探して、

直感で入ったお店は四川料理でした。

 

 

当たり! 料理はおいしかった。

マーボー豆腐もさすが!

と唇をひりひりさせながら口に運んでいました。

 

 

そして見つけたのがこの餃子。

餃子の皮に唐辛子かラー油が練りこまれていて、見た目も赤い、いかにも辛そう。

 

 

おそらくこのお店のオリジナルメニューです。

 

 

四川のあの、わたしたちイメージする辛さを、オリジナルメニューでも表現しました。

そう、わたしたちが四川料理に求めているのは、本格的な辛さ、ヒリヒリさ。

 

「あそこのお店、餃子の皮まで赤いし、辛いんだよー」

 

 

わたしたちがこうやって口コミすることが分かっているかのよう

(ブログに載せるくらいに)で、さすがです。

 

 

何が自分たちの価値なのか、たったひとつ、何を訴えるのか。

 

いつも追及して、お客さまに喜ばれるようにアレンジしているんだなあと、

おいしくもうれしい某中華街の某お店でした。

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ママさんがなぜか集まる場所

この前を通るたびに感心しています。

 

カフェでランチも夜もやっているというお店です。

 

なぜお客さまがここにいつも訪れていて、ワイワイ楽しそうにしているのか、ここの良さ、「価値」が一発でわかるからです。

 

 

 

ここのお客様は、「ママ」ばかり。

小さなお子さんとベビーカーと一緒に連れて、ランチ時になるとママさんたちがいつも大勢でワイワイお話ししています。

 

店内は明るく、椅子はありません。

全部平らな床にテーブルです。

これなら、お子さんがハイハイできるスペースはたっぷりであぶなくありません。

 

この近所は住宅地。

アパートやマンションも多く、目の前は公園で、ママさんたちが集まる通りです。

とても上手だなあ。ママさんたちがまさにほしいと思った場所なんだろうなあと感動さえ覚えます。

 

最初のうちは、「ヨガ」などやっていましたが、今はもうやっていなさそうです。

「ママさんたちの場所」

と自分の「1%価値」を見つけて、定めて、それをどんどんレベルアップしているようです。

 

いつまでもこの場所で喜ばれてほしい。

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勝手にどんどんあふれてくるための小さなこと

たとえば、大の大人が、目をきらきらさせて一生懸命自分の仕事に取り組んでいる姿が好きです。

 

自分の仕事や事業に関して、もっと良くする、もっといい世界ができる、と、「これは、あなたしか知らないでしょ」というウンチクをうれしそうに語る姿が好きです。

 

そうなりたいと思っても、やっぱり現実は・・・

 

 

どうしても、制約はいろいろあります。

お金が必要だったり、ここぞというときに時間がなかったり、問題が起きたり。

 

現実って厳しいなあって思うことはしばしばですよね。

わたしもそうです。

なんというか、やっぱり恐いです。。。。

 

でもそんなときに、少しだけ勇気を出して、一つだけ足を前に出すことができたときの喜びも知っていると思います。

 

「なんだか、すっきりした。アイデアがどんどんわいてきてしょうがないよ。」

 

こういう瞬間が大好きです。

 

たったひとつ小さな勇気を出すだけで、自分の中に隠れていたものがウソのように次々とあふれてきます。

 

わたしは最近思うようになりました。

必要なのは小さな勇気だけ。

そしてその小さな勇気を支えることができれば、もうあとは勝手に(笑)どんどん進んでいくんだって。

 

小さな勇気をみなで支えられたら、どんなスゴイことが起こるんだろう?

 

ワクワクしながら、妄想しています

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伝えるべきは世界観

ここでコーヒーを注文した時は、「あ、こんなに待つんだ」とちょっと驚きました。

 

でも、その待つ時間が楽しいのが、このお店が選ばれる理由。

 

 

 

ブルーボトルコーヒーですね。

 

ひとつひとつ丁寧に、自家焙煎したコーヒーを、手作りで入れてくれます。

コーヒー豆の入ったフィルターにゆっくりお湯を注いで、

それこそ、ポタポタと丁寧に出来上がってきます。

 

丁寧に入れたコーヒーを気軽に飲んでほしい。

 

創業者の想いが伝わります。

 

 

コーヒーそのものを大切にしている雰囲気を出すために、店内は工房風です。

レジの後ろには豆袋が積まれていました。

 

スタッフは一様におしゃれながら落ち着いた雰囲気を出しています。

値段もちょい高め。

 

レジはi-padを使っているのは、洗練された雰囲気とともに、

コーヒー豆に関すること以外はできるだけシンプルにしようという意思を感じます。

 

 

創業者の、「コーヒーを飲むとはこうなんだ」という世界観を感じます。

彼の見出した1%価値が、雰囲気からスタッフから淹れ方から

何から何から残りの99%を形作っています。

 

また世界観を味わいに行きたいな。

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本当に伝わるようにするには

お話や提案がうまい人は、1時間でも2時間でもお話ししたりします。

まるで名人芸、ついつい聞き入ってしまうこともありますね。

 

わたしもこれぞ、というときはつい話してしまうことがあります。

 

でも、終わった後に、「いい話を聞いたなあ」とは思っても、何を話していたっけ? と肝心なところが残っていなかったら…

 

思い出してみると、聞いているわたしに届くのは、ほんの2つか、3つ。

それも、その2つや3つがちょっとでも難しければ、もう届きません。

だったら、わたしが話しているときも届くのはほんの2つか3つ。

いや一つです。

 

伝えることはたった一つでいいのです。

遊園地でみても

 

ディズニーランドといえば・・・夢の国!

ユニバーサルスタジオジャパンといえば・・・映画アトラクション!

富士通ハイランドといえば・・・ジェットコースター!

浅草花やしきといえば・・・昔ながらの遊園地!

 

全部に乗り物あるし、夢のような楽しさもあるのですが、わたしたちに伝わるのは一つ。

だから残る、だから選ばれる理由になります。

 

小さな会社こそ、起業家こそ「○○といえば!」があると強いんです。

「○○といえば!」ありますか?

 

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いろいろ言われて迷ったら

事業をやったりメッセージメイキングや提案活動していると、売れたり、売れなかったり、他の人が「これはいいね!」「これはもうちょっとこうしたほうがいいよ・・・」なんて言われたりすることがしょっちゅうあります。

 

 

それを取り入れて少しずつ改善していくのもとてもいい方法です。

 

でも、どうしても気が乗らない時があります。

 

 

わたしはずっとそうでしたから、

「頭でわかっていても、いや」という気持ちにはよくなりました。

 

そしてハッと気づいたのです。

 

「これ、自分が、やりたくないんだ」

 

世の中に「やり方」はたくさんあります。

効果の出る「やり方」はたくさんあるし、また生み出されています。

 

しかし、わたしはたったひとりです。

事業をやるのも、スタッフ取引先に幸せになってもらいたいのも、

それはわたしがやりたいからです。

 

そこでわたしは、どうしてもやりたくないときには、

効果があるかどうかではなく、自分自身を基準にしました。

 

そしてこうも考えました。

もし「やり方」がたくさんあるならば、

自分自身のやりたいことをもっともかなえられるやり方も必ずあるはずです。

学び続ければいい、アイデアを考え続ければいい。

わたしは、そう信じることにしました。

 

あなた自身、ユアセルフは、何をやりたいですか?

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